意味の断崖

あらゆるものの裏側に死=無が張り付いていることの怖さについて考えるつもりだったが、過去日記でそのあたりは何度も言及してることがさっき読み返してみてわかったのでひとまず考えるのを中断して過去の自分の意見を読み返す。老化による記憶力の低下というよりふだんいかに頭の中で物を考えてないか(物を考えるのに頭の中を使ってない。その時々に書いてる文章の中でしか考えてない。書き終わると文ごと頭から切り放され記憶には残らない)ということなのだ。
過去の私の意見はこんなのこんなのが代表的で、前者は幽霊の無意味について。後者はその無意味を小説はいかに書き込むことが出来るのかについて考えている。フィクションとしての「怪談」に何が出来るのかについてはこういうことも書いてあり、でも書いたことに満足したら記憶にも残らないので実際小説を書こうという場面で生かされている実感が全然ない。
とにかくここ一、二年は「無意味」の怖さというのが自分の中でテーマになっていたことが読んでいるとぼんやり思い出されてくる。無意味の恐怖、とは言ってもたとえばチンパンジーにマジック握らせ画用紙与えれば無意味な絵があらわれるが、その無意味さは私に無意味そのものとして迫ってはこない。私の脳は無意味なものを無価値と判断して見過ごすようにできているからで、だからチンパンジーの絵はべつに怖くならない。
対して人間が描いた絵のように意味のあるもの(私の脳に意味の解読を迫るような構築性のあるもの)のなかに目立たぬように無意味が紛れ込んでいた場合、うっかり意味を読みにいった私の脳は、道が途切れていきなり目の前に断崖があらわれたみたいに不用意に無意味に直面して真っ白になる。そういう瞬間がおとずれるのは何もホラーだけに限らないけれど(というかホラーを含めてそんな瞬間が訪れる作品はめったにない)、心霊とか呪いとか殺人鬼とかをめぐって構築された物語にふいにそうしたホワイトアウトが到来することはホラーの理想的な状態だと考えることは出来る。つまりわれわれを無意味の奈落に突き落とすための罠としてでっちあげられる「意味の構築物」の材料として、心霊など意味の上でも「これは怖いものだ」と大方を納得させるアイテムが使われているものを、理想的なホラーだと私は仮に考えるわけだ。