よみがえる原理主義

先日も書いたようにビーケーワン怪談大賞に投稿した「歌舞伎」という話が大賞をいただき、その後くわしい選考過程も公開されました。この貴重な経験にくわえ、8/11の日記にコメントを下すったid:sakapi(佳作入選作「ねじれた人と折れた人」の作者)氏とのやりとり、およびsakapi氏の日記で拙作へのありがたい感想も読んだりしたことで私の中に、怪談とか恐怖とか怪異について原理主義的に語りたいという欲望がひさしぶりにふつふつと湧いてきたのでここは少し、欲望に身を任せることにします。


子供の頃からイボか魚の目が少しずつ成長するみたいにして膨らんできたそういう欲望(恐怖とは何か?=何で私はコレが怖いのか、が知りたくてたまらない気持ち)が、七、八年くらい前に膨らみすぎて一気に爆発したような時期があり、当時書いたそっち方面の文章は今読むと意味わからなかったり赤面物や間違ってるのもいろいろ混じってますが、ひとつのページに全部まとまっています(「「恐怖生活」)。
でその後、自分が入れあげたり影響受けた表現者や論者が次々メジャー化していくのを見るうちに何だか気が済んでしまったり、ずっと言いたくても言葉にできなかったものがそういう人たちの文章のおかげもあって言葉にできるようになり、結果便秘が治ったみたいに頭がすっきりしてあまりそっちのこと(恐怖原理主義的なこと)は最近では頭に溜まらなくなっていたということです。憑き物が落ちるというやつですか。


現在では小説とか短歌のことを考えるときにキーワードのひとつとして恐怖があるとか、そのくらいの扱いに自分の中ではなっていたわけですが、これは本当は逆なのかもしれなくて、つまり恐怖について考えたいんだけど、恐怖をじかに考えるための語彙は全部使い果たしてしまったので、考えるには何か口実とか回り道が必要だから小説や短歌のことをかわりに考えていた、ようなところがあったのかもしれない。


恐怖は作り出すものじゃなく、あらかじめ、すべてに先立ってあるものだということをよく考えます。
だからあえて恐怖表現を狙わなくても、どんな表現物にも裏側に恐怖が張り付いてるし、表現物じゃないたとえば百円ショップで売ってる三個入り百円の石鹸の包装とか、チェーン系居酒屋の真っ赤な看板の裏にも張り付いてる。人工物ですらない庭の椿の木の陰や、網戸の隙間から飛び込んでくるカナブンの羽の下にもそれは張り付いてる。
そういう世界に自分は生きているのだ、という前提がないとホラー(恐怖にまつわる表現全般を仮にこう呼びますが)は成り立たないと思うのですね。


この「すべてに先立ってあり、あらゆるものに張り付いている恐怖というもの」をちょっと先走ってわかりやすく言い換えてしまうとそれは「無」というやつで、もうちょっと湿り気をもった言い方をすれば「死」になります。
自分自身も含めて、この世に存在するあらゆるものは、かつて存在しなかったときがあるし、今後いつか存在しなくなるときがくるということ。つまり私も何もかも潜在的には死んでいるという、世界を基盤から脅かす不安な感覚。それをこんなふうに抽象的に語るのじゃなくって、具体的なできごとを通じて受け手の中に呼び覚ますことに賭ける文学や映画の作品の一傾向があり、ホラーはその傾向を代表するジャンルなのではないかと思うわけです。


ああ抽象的だ。もっと具体的にいえるようにしばらく考えます!


追記
憑き物が落ちるだ。腫れ物はさわるんだった。訂正しました。