純文学とエンターテインメント文学

小説には純文学とエンターテインメント文学という区別がある、と言われている。もっとも、こうした区分はもっぱら純文学勢によってなされるか、純文学を過度に意識した一部のエンターテインメント文学勢によってなされるか、のいずれかであり、世の人々の多くは小説にはミステリーや歴史小説、恋愛小説や経済小説などといった幾多のジャンルがあり、そのうちのひとつが純文学であると捉えているだろうし、さもなくば純文学などというものの存在じたい知らないかもしれない。



私がここで純文学とエンターテインメント文学のあいだに引かれるべき、もしくは消されるべきかもしれない境界線を問題にしようとするのは、私に純文学へ「肩入れ」したい気分が働いていることと無縁でないし、それは見方を変えれば純文学へのコンプレックスだと見ることも可能である。だが理由はともあれ、「純文学とエンターテインメント文学を分けることなど無意味だ」と思ったことがまだ一度もなく、この両者を対立概念として持ち出すことにとくに抵抗のない私が、大雑把な定義としていつも思い浮かべるのは「エンターテインメント文学はジャンル小説であり、純文学は非ジャンル小説である」といったものだ。



つまり政治小説やホラー小説といったジャンルが小説にはあるが、そのいずれにも属しそこねた曖昧な領域が純文学である、ということになるが、それがどういうことなのかもう少し詳しく言うと、ジャンルにはそれぞれに固有のルールがあり、たとえばミステリーなら謎(事件)が呈示されて探偵(的な存在)がそれを解読する、という基本ルールがある。時にルールを逸脱することがあるにしても、あくまでそれは「逸脱」であり「無視」ではない、という範囲で小説は書かれるだろう。ルールを踏みにじったかのような作品さえも、つねにルールとの関係で読まれ、ルールからの距離をはかるように読まれるというのが、ジャンル小説の読まれ方である。



ミステリーを手に取る読者はミステリーが読みたいのであり、たとえばそれがどんなに面白かったとしても、読んでみたら歴史小説やファンタジーであった、では困るのだ。ジャンルに期待される一定の約束が果たされたあとで、個々の作品はそれぞれ傑作であったり駄作であったりすることを許される、それがジャンル小説というものである。



では非ジャンル小説である純文学はどのようにして読まれるのか。……自由に読まれるのである。純文学には作者と読者のあいだで共有された約束が何もなく、したがって何がどのように書かれていても誰も文句が言えないし、言うべきでもない。それが駄作であるか傑作であるかが問題なだけで、書かれ方については定められたルールが何もないのだ。

もちろん純文学にも、たとえばミステリーの構造をもった作品は多いし、サスペンスの手法が使われたり、ポルノの要素を持った作品もあるが、それらはいわば一回限りに使い捨てられる材料であり、たまたまそこに選ばれてきた手法にすぎないのだ。



どのジャンルのルールにも属していない小説、というのが純文学の消極的な定義であるが、おそらくそれ以上に説得力のある定義を純文学に与えることは難しい。むろん現実には純文学を読む者はジャンル小説を読む者と同じように、何らかの制度的な期待をもって読み始めるのであって、ただ単に自由を満喫しようと思ってページを開くのではないだろう。それは純文学と呼ばれる小説のほとんどが、非ジャンル小説としての自由を存分に行使することに対し、どこか遠慮がちに見えることからも想像できる。



しかしそれならば純文学はたとえば「人生小説」「哲学小説」等々といったジャンルでも作ってそこへ引っ越すなり、既存のジャンルにバラバラに別れて引き取ってもらった方がいいし、そのほうがフェアでもある。三流のミステリ、三流のユーモア小説、三流のポルノといったものが、純文学という看板に守られて一流扱いされるという錯誤がもしもあるとすれば、それを避けるということはフェアであり、よいことであるに違いないのだから。



だがそれは言ってみれば、かなり絶望的な状態だ。この世にジャンル小説しか存在しないという事態を想像すると、息が詰まるような窮屈さを感じるし、だから私はやはり「もはや純文学など存在しない」などというセリフには抵抗を覚えるのだが、しかし一方で純文学という言葉が不必要となる日がいつかくるかもしれない、ということを思わないではない。

それは人がジャンルの約束事に守られることなく小説を読む、という事態を想像することであり、あるジャンルについてのマニア的な精通がもたらす満足感や、なじみの場所でくり返される安息といったものを期待せずに、人が皆ひたすら自由を求めて小説を読む、という日が来ることの想像だ。



そのときすべての小説はジャンル小説であると同時に非ジャンル小説であり、エンターテインメント文学であると同時に純文学でもある、ということになるはずだが、はたして人はそのような自由に耐えられるのか。そもそもそんな自由でとらえ所のない小説を、商品としてどのように売ったらいいのか、といったことを考えてみるとやはり、現状の不自由はこれからも続くように思えるし、もしもいつか小説の自由が実現するのだとすれば、それは小説が今以上に決定的に衰退したあとではないだろうか……そんな気がするのである。

2002/08/12