地獄という日常

ちょっと前に大岡昇平の「野火」を読んだ。


地獄のような戦場の体験、という決まり文句でも語れるだろう肺病やみの一兵士の体験する死屍累々の世界が描かれるのだけど、その地獄にはまた、地獄の底までこんな瑣末な日常の景色がしつこくつきまとうのかよと思うような、そういう意味で希望的でも絶望的でもあるような、われわれのごく見慣れた微妙な人間関係の機微もまた逃さず書きこまれているのが、つよく印象に残った。


つまり分隊からも病院からも見放されて行き場のない、あとはじっと死を待つだけみたいな者どうしのやりとりが、バイト先でたまたま知り合ったフリーターどうしの他愛のない会話とたいしてかわりなくみえるというところ。
表面的にはいろいろと親切にふるまいつつ、こっそりしんどい仕事をそいつに回してラクしようとする、みたいな感じで自分だけ生き延びようとしたり。それに失敗すると適当にとりつくろってまた親しげにふるまってみせたりする感じというのが、極限状況にあらわになる人間性、みたいな文学的主題というよりは、うんざりするほどよく見慣れた日常の光景であるように見えるように、書いてある。
そうそう、こういうやついるよなあという人たちが、それなりに親切だったりずる賢かったり、気が合ったり合わなかったりしつつ、そのうち見なくなったと思ったらあいつバイトやめたらしいよ、と仲間うちで風の噂で聞くみたいにどこかで死体になって腐っていってる。


たぶんそういう読まれ方をしてきた小説じゃないんだろうけど、今読むとここに書かれている戦場は日常の一バリエーションというか、これがほかでもないあの戦争、あの戦場、あの旧日本軍であるというような特殊性をこえて、普遍的なところを非文学的によどみなくさらけだしている小説だと思う。
その普遍性というのは、人類とか歴史とかいうような大文字を呼び出す普遍性ではなく、今ここでわたしが目の前にみている景色とあくまで地続きであることが仔細に確認できる、という意味の普遍性である。


それは地獄というものが反転したユートピアとして救済に思えてしまう心情に釘を刺すと同時に、いまここにある日常が確実に地獄の一バリエーションであることを実感として淡々と理解させるものだ。
われわれは仲間の死体を食べて生き延びているわけではないが、それはたまたま死体がそのへんに無造作に転がっていないからにすぎず、そのかわりにまだ食べられる食品(の死体)がゴミ箱にごっそり入ってたり、サバイバル食のようなレトルトカレーカップ麺が100円で売ってるから100円がある人はそっちを食べているだけだ。


この小説は終盤に急速に文学的というか宗教的な主題をつよめていくのだが、だからといって、そこに書かれていることを主題=読みとるべき答え、というふうに受け取ってしまうと、上に書いたような読み方は封じられてしまう。
また戦争文学を「現在のわたしたちが忘れてしまったものを思い出すため」に読むなどというくだらない嘘のスローガン(忘れたふりをしてたことを思い出すふりをする、のなら正しいが)のために、じっさいには誰もまともに読まないなどというのは馬鹿馬鹿しい状態だ。
ここには現在の自分たちのことが今では誰も書かないほど克明に容赦なく書いてある、ということが分かってびっくりするために戦争文学をこれから読むべきなのだろうと思った。