風景について

 書きたくないことは何も書かずに、好きなことだけを書いて小説を書くこと。
 たとえば風景描写にしても、モデルになる現実の風景が存在するとか、設定上こういう風景ってことになっているとかいうつまらない理由で、書きたくもない風景を穴埋め問題でも解くみたいな気分で描写することは一切やめにしたい。というかそのように風景を書くことは自分にはそもそもできないのだ、書きたくないことを書く技術が自分には完全に欠けているのだ、ということ肝に銘じておくためにここに記しておく。私は自分の書いた日記をたまに読み返すのが好きなので、こうして書いておけばたとえ忘れてしまっても(絶対に忘れる)いつか読み返して肝に銘じなおすかもしれないから。
 風景を書くときは現実にそういう風景がありうるか、そういう風景を置く物語上の必然性があるかなどと、どうでもいい(どうでもいいのだ)ことに囚われずに好きな風景を箱庭をつくるみたいに組み立てればそれでいい。私は線路とか墓地が好きだから、たとえ話の舞台が線路や墓地の実際にはなさそうなところでも線路を引いて墓地を置いてしまっていい(試合中の野球場のスタンドとかでも)。そして線路や墓地がそこにあることに何らかの意味があるのでは?などと余計なことを気にしなくていい。気にしてしまうと、せっかく好きなものを並べたのにそこから生じ始める意味が重荷となり、好きなものが好きじゃないものに変ってしまうからだ。小説に書かれたものにはもちろんすべて意味があるが、「これは私が好きなものである」という意味が最大の意味なのであって、この意味を見失うとたぶん私は小説が書けない。線路や墓地が小説の中でどういう意味を担っているかなどということは、読み返すたび違って感じられるはずだし、違って感じられる意味をおよその意味に束ねておく能力を私は私に期待できない。私はただそれらが私の好きなものであるという事実を手がかりに、書きかけの小説にアクセスするのだ。私は私の好きな風景を眺めるために、そこに続きを書き足すために書きかけのファイルを開くことができる。
 私は日記を読み返すのは好きだけど、自分の書いた小説を読み返すのが好きじゃないのは、きっと小説(投稿するような長さの小説)には自分の本当に好きなことが書かれていないからだろう。