描写についてのメモ

前提としてたとえば、これはいい描写だなというものがあるとしますね。性描写であれ、風景描写であれ。そこにはイメージのふたつの層があり、ひとつはとうぜん、書かれている言葉がその場に作り出すイメージです。これをAとすると、同時に、その言葉が連れてきてしまう別のイメージ、その言葉の横をふっと通り抜けてしまうイメージBがある。つまり読者の側にも、性愛体験や風景を見る体験がいくらでもあるわけですから、ほんとうに喚起力のある描写とは、その刺激が読者のなかにイメージBまでも連れてきてしまうものではないか。そして実のところ、AとBの「あいだ」を作り出せるものこそが、ほんとうにすごい描写なのだと思います。難しい問題だし、理論化もできないけれど、読者はその「あいだ」を揺れ動く。その揺れを享受したり困惑したりする節があります。

一般的には短いセンテンスと、それによる点描性のほうが、「あいだ」を作りやすいと考えられていますよね。たとえば深沢七郎あるいはデュラスのようなタイプ。これに対して、視界が言葉で埋め尽くされるような長文で、長く、びたーっと対象にまといついてゆく描写方法もあります。それはそれで素晴らしいものがあるわけだけれど、その場合、連れてくる別のものが少なくなる傾向が生ずる。

ひとくちに、描写による物語批判といっても、物語と描写が単純な対立関係にあるわけはなくて、物語が作る情動の線と、描写のもたらす情動、さらにいえば、語り口の情動線、この三者は相互にまったく異なりあうものです。「物語批判としての小説」という命題は、たがいに異質なこの三者の相関のうちに測られるべきだと思いますが、ともかく、その異質性をあらしめるためには、やはり二者、あるいは三者がなくてはならない。僕は久しく描写至上主義で押し通してきましたが、ここへ来て少し考えが変わりました。各種「あいだ」重視、でしょうか。で、描写との「あいだ」を作り出すためには物語も必要である、と。そして、描写自体においても、それが作り出すものと連れてくるものとの「あいだ」の問題こそが重要なのだと、最近は考えています。

 引用はいずれも「新潮」2005年12月号、渡部直己「面談文芸時評」第一回 ゲスト・青山真治 より。渡部氏の発言部分。
 これらの発言は青山氏の

僕は自分の小説に対していつも描写が足りないことを不満に思っています。もっと描写すべきだ、と。しかしその一方で、描写をするに必要な「話」、それに足る「話」がどこにあるか、と考えると、いつもバランスが取れません。どんなに細密に描写しても、それだけの「話」じゃあな、と思えてしまう。語るに足る「話」と描写の量の関係、これがつねに惑うところです。

という発言を受けて語られている。
 渡部氏の言い方というか考え方はいかにも批評家っぽくて、反対に青山氏の言い方(考え方)はすごく小説家らしい。