小説は小説家が書くもの

小説を書いていていつも苦痛なのは、自分の書いているものが小説だとはどこか致命的なまでに信じきれないまま、信じたふりをして書き続けなければならないというところだ。
これは小説と呼ぶにはボーダー上にあるようなものを私が書いている(そうでありたいという気持ちはあるが)からだとか、小説としてはあまりに筆力が未熟である(それは残念なことに否定しきれないが)からだとかいう理由ではない。そうではなくて、たぶん自分の書くものが私には小説だと信じきれないのは、私が小説家ではないからだと思う。
楽家でもない人間の演奏した音楽だとか、漫画家でもない人間の描いた漫画などと較べて、小説家でもない人間の書いた小説、というものの信用の置けなさときたら格別なものがある。つまりわれわれにとって小説とは、小説家が書くから小説なのであって、小説を書くから小説家なのではない。小説家が書いたという保証なしに小説を読み続けることにともなう苦痛と不安は、音楽や漫画での同様の事態とは比較にならない大きなものだ。ただでさえ小説を読むことは受け手に大きな負担を強いるのに、それが結局のところ小説であるかどうかさえ不明のまま読み続けるのではたまらない。小説はほんのさわりを眺めただけで(すぐれたものかどうかはもとより)その作品が好きか嫌いかを判断する、ということのかなり難しいジャンルである。したがって読むに先立っての何らかの保証を読者は求めるし、多くの読者は作者名をその拠り所とする。そのさい作者名が“小説家のリスト”にのぼっていることが最低限の保証となって、多くの読者にとってその小説が読んで好き嫌いを判断してもよいものだという条件になるのだ。
多数派の読者に属する私は、私という小説家でもない人間の書くものを、しかも最後まで読み終えていない以上それが小説だとはまだどうしても信じることができない。小説と信じることができないものを小説として読み続けることだけでもかなりの苦痛だが、しかも私はそれを読むのと同時に書き続けなければならないのだ。これにはいつも気の遠くなるような思いがする。しかし私自身が書き終えるまでそれを私は絶対に読み終えることができないのだから、まだ小説かどうかわからないものを書くという苦痛から逃れる方法は、ただ書くのをやめてしまうということ以外にはない。この誘惑に半ば抗し、半ばうち負かされるかたちで(つまり最後までなんとか書き上げはするのだが、やはりこれは小説ではなかったという感想を「読者」としての私自身が漏らすかたちで)私は苦痛をひたすら引き伸ばし続けているのだが、この引き延ばしに果たして意味があるのかどうか、何か根本的に道を間違えているのではないかという不安はどうにも拭えないものがある。