残雪の書き方

残雪『蒼老たる浮雲』(近藤直子訳)の訳者あとがきの中に「ある台湾の新聞(『中時晩報』一九八八年六月九日)のインタビュー記事」の一部が載っていてそれが残雪の具体的な執筆方法について触れていて興味深いだけでなく役に立ちそうなので引用しておく。

問い・・毎日一時間ずつお書きになるそうですが、残った時間、例えば買い物や食事のときに、そのことを考えますか?
残雪・・考えたことはありません。机の前に座って最初の文を書きながら、まだ、次の文がどこにあるかも知らないのです。まるで構想もなければ大綱もないのですが、長い間に溜まっているものについては長めのものが書けますし、ときにちょっと思い浮かんだようなことについては短いものを書きます。
問い・・では当然、何を表現したいかということも知らずに……。
残雪・・もしわたしにそれがはっきりといえるようなら、こういうものを書きはしないでしょう。
問い・・感覚はどうです? ぼんやりした感覚についてはお話しになれるでしょう。
残雪・・ある種の情緒はあります。でもはっきりと説明はできません。その情緒が、強い理性に自らを抑制させ、非理性的な状態で創作をさせるのです。もし抑制しなければ、おそらく理性的なものが出てきてしまうでしょう。わたしの作品は理性を完全に排除しなければならないのです。

「毎日一時間」「次の文がどこにあるかも知ら」ずに「理性を完全に排除」して書く、というのは残雪の作品を読んで体感的に納得できるしとくに「毎日一時間」しかこういう書き方ではやっぱり残雪でも書けないのだなあ、というのはちょっとほっとするというか、たぶん残りの二十三時間は完全に作品の枠組みを無意識に預けてしまってその一時間で一気に枠ごと汲み上げるみたいな感じなのかなと思う。作品にうんことか痰とか死体とかの汚物がまったく遠慮なく句読点のように頻繁に書き込まれながらちっともこれ見よがしだったり思わせぶりなところがないのも、この非理性の徹底のためなのだろう。理性はそういうものにいちいち理由づけをして納得を求めてくるからだ。

残雪・・夢を見ているのではなく、高度に集中して創作しているのです。ときには故意に常識や現実に相対して、新しいものを作ろうとするのです。まるで無人の曠野に着いて、何ももたずに好き勝手なことをやっているような、そんな快感があります。

前の引用部分とはいっけん矛盾するようだけどそうではなくて、夢うつつではなく「高度に集中して」理性を排除するということなのだろう。理性の排除はいわゆるアッパーな状態とダウナーな状態の両方でできるような気がするが、小説を書くという作業はダウナーな状態では一般に難しい気がする。少なくとも残雪の小説のように(全体の筋はいっこうに掴めないものの)細部が異様にくっきりした文章は読むと夢のようだけど、夢を見ているような散漫な状態の頭では書けないのだと思う。
このように、自分が自分の書き方をつねにすることができる場所、を頭の中と生活の中の両方に見つけて頭と生活でいつでも同時にそこにいけるような道筋を確保しておくということは、継続して創作を続けていくなら絶対に必要なのだと思った。私はいつも自分が以前どこでどんな状態で書いていたか忘れてしまって、かつて書いた場所をさがしあてることに無駄に時間を費やしてばかりいる(間違った場所で書き始めて途中で間違いに気づいて移動のくりかえし)ので、この点は本当に何とかしたい。