短歌日記(ジレンマ)

 小説が書きたくてもなかなか書けない私にとって短歌は、短歌でしか書けない、短歌だから書けると思わせてくれる希望のウツワであると同時に、ほんとうに書きたいものはどうしても短歌では書けない、短歌だから書けない……というジレンマのはりついたウツワでもある。

 あたりまえのようだが、短歌として書くとどんなものでも短歌になってしまうのである。つまり何ていうか、作者が私ではなく短歌と私の合作になるというか、どちらかというと短歌が主たる作者になるというか。自分が作者として主導権をにぎろうとすれば、それはもう短歌ではない別なものになってしまう気がするのだ。

 たとえ短歌でなくなったって、短歌をひとつの出発点にして自分のやりたいとおりの表現にしてしまえばいい、ともいえる。だけどそんなもの誰が読むのか、という問題がある。まがりなりにも短歌として書かれてるから、人に読んでもらえる可能性があるのではないのか。ジャンルとして確立した場所で勝負すれば、もしかしたらそれなりに評価してもらえるかも、という下心も書く原動力には大いになるのだ。

 おもえばこういうジレンマは小説にだってあった。自分の書きたい、書いてしまうある種のテキストを、世の中できちんと評価されうる場所へ持ち込むために、なんとか小説に直せないものかと思ったわけだ。ただし小説の場合、短歌が「すべて短歌になってしまう」のとは違って、いっこうに小説らしくならないという問題につきあたる。短歌は私の書こうとするものをすべて吸収してしまいそうなのに対し、小説はかたっぱしから跳ね返し、拒絶してくる。入れてもらえない。

 私にとって短歌と小説はそういうものだ。そういう現状認識のうえにたって、じゃあこのジレンマをどうすればいいかと考えた場合思いつくのは「短歌や小説のつもりでなく書いてしまったものを、事後的に『短歌です』『小説です』と強情に言い張る」ことぐらいなのである。それがどんなに短歌や小説に似ていなくても、強情に「短歌です」「小説です」と言い張られたものを、まっこうから否定はしにくい。コウモリを鳥じゃないと断言できるようには、人はそれを自信をもって否定できないかもしれない。

 強情に言い張れば、こんな(↓)のもいくらか短歌に見えるだろうか。

  • テレビの小男が大口あけて頭蓋吐くとき信号が黒に変わる君は誰

初出http://cat.zero.ad.jp/gips/kessaku/asagata.html