小説を考える/考えてもらう

 保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』から抜き書き。いろいろ大事なことが書いてあるんだけど、さがすのが面倒なので大事さの順位とは無関係に、ぱらぱらめくって目に止まったところからいくつか。

 これは余談だが、カフカの小説は『審判』を読んでもヨーゼフ・Kのいる銀行の組織図が全然描けないし、『城』の地図も全然描けない。カフカのものすごいところは、そういう外から見る発想がまるっきりないところで、『変身』にしたって、グレゴール・ザムザがなってしまったものの姿が正確には描けないようになっている。
(太字は原文傍点)

 小説とは、ただ「面白い話を書く」ものではなく、「面白い(興味が湧く、気持ちが動く……など)とはどういうことか」を考えながら書くものであり、普通に思われている面白さと別の面白さを提示するもののことだ。前節のベケットの面白さの説明は、「別の面白さ」というものを考えたことのない人は、「それってやっぱりつまらないってことなんじゃないの?」としか思わないかもしれないが、間違いなく面白さの一つの様相なのだということを理解してほしい。

 私の小説は、ほとんど即興劇とか即興演奏といっしょで、実際に書いてみないことには面白いのかそうでないのかがわからない。もちろん事前に一つの場面の大まかな展開は考えているけれど、書かれた文字を自分で読んでみるまでは、そこに流れる時間の緩急がわからない。

 社会問題をテーマにするのなら、社会問題を創出するくらいの気構えが必要だろう。

 小説は、ふだん自分が使っている言葉で書くべきものだと私は思う。そうでなければ、小説を書きながら「小説とは何か?」を考えたり、その結果を自分にフィードバックさせたりすることができない。
 たとえば、地の文で使いにくい日常語のひとつに「すごい」という言葉がある。「すごく大きい」と書けばすむところで、「とてつもなく大きい」「非常に大きい」と書いてしまうのは、小説の外見にとらわれているからだ。「すごい」を地の文で使ったとして、それで小説の雰囲気が台無しになるようなら、それはその小説の器がその程度でしかない。というのは少し酷な言い方だが、何か新しいものを持ち込んだ小説だったら、「すごい」という言葉を使っても違和感がなく、「すごい」という言葉に別の様相が付与されるはずだ。


 と、せっせと書き写してたら玄関のチャイムが鳴った。いつものように無視してたら「郵便です」の声。市役所から封筒で「被保険者証返還命令予告書」というのが届いた。二年間の保険料の滞納分。今月24日までに、もちろん払えるはずもない。