鮪と文学

指にささくれが出てじゃまだったので毟ったら血が出た。そのへんに付いたらまずい(バイト中につき)と思ってあわてて舐めたらマグロの赤身の味がした。マグロ食べるとき、ようするにあれは血の味が今までしてただけか、ということだ。でも血なんていくらでも舐めたことあるのに(口の中が切れたりとか)今までマグロの味がしなかったのは何故だろう。なんか脳の中でカテゴリが別になってて、縦割りになってて横の連絡がなくて、血の担当者には食物の味の記憶から同じのを拾ってくるって発想がなかったのかもしれない。逆もまたしかり(マグロ食べてて血の味とは気づかない)。でもマグロを食べて、これは自分にもある味だなとか思いながらで食が進む気はしないし、進んだら進んだでその先には安全が保証されない崖とか穴とか森とかがあるわけだろう、てことでもあるのだし。ぼくらはどこまでなら自由になっても生きられるのかという実験をするのは芸術の役割であり、芸術家はある意味みんな人肉料理をつくってるのだと思うけどね、自分を自分で食べてみせるような。そういうことをする覚悟は私にはない。
ところで私は今『日本文学ふいんき語り』(麻野一哉、飯田和敏米光一成著)という本を読んでいるが、そしたら宮沢賢治がすごく読みたくなったのでブックオフに行ったが売ってなかった。私は「〜らしさ」というものへの強迫観念というか、呪縛がものすごく強いので、自分の中でいい感じに積み上げてきた「こんなふうに書こう、そしてそれを小説と名乗ってしまおうかな」という手さぐりの実感もひとたび「小説らしさとはこうだ」という外からの風(実は自分が呼び込んでる)に吹かれると簡単にくずれて吹き散らされ、どっかに行ってしまう。だから小説が小説らしさ、といううろこに書かれた模様ごと目から外れるような姿であらわれる例をたくさん知り、忘れないよう(忘れっぽいので)それを更新し続ける必要もある。というようなことが同時に頭に浮かびながら宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が読みたくなったのだが、つまり私は「銀河鉄道の夜」を読んだことがないほうの日本人なのである。
私はたいていの場合そっち側で、もっといえば「吾輩は猫である」も読んでないほどそっち側だ。「人間失格」も「山椒魚」も読んでないほどである。なんかこのあたりはそれはそれで読んでないのが一種の自慢に聞こえてしまうかもしれない(超メジャー文学ということで)ラインナップだが、ぐっとサブカル寄り(?)にしても「孤島の鬼」も「黒死館殺人事件」も「家畜人ヤプー」も「万延元年のフットボール」も「枯木灘」も読んだことないし、三島由紀夫安部公房石川淳古井由吉横溝正史も一冊も読んだことがない。そんな人間であることが(自虐のポーズとしても)自慢にならないのは当然ながら、こっち側がじっさい世の多数派であるのは明らかだからだ。だから自慢はしないが、まあ世の中に新刊本というものが一冊も出なくなっても読むものには不自由しない、ということだけは言える。で、「銀河鉄道の夜」だが、『ふいんき語り』によれば何書いてあるんだかよく分からず、現実と白昼夢がリンクしてて、宮沢賢治作品の中でも何か極端なところがあるらしく、しかも未完成というのですごく気になる。気になってるうちにブックオフの棚に置かれてほしいと願っているけれど、私が何かを気になってい続けられるのは、経験的にいえば二週間くらいだろうか。とにかく『日本文学ふいんき語り』は読むと小説が読みたくなる(書きたくもなる)いい本だなあと思いながら現在読んでおります。