短歌日記

 短歌もエンターテインメントである。歴史的な文脈や、同時代的な現状をほとんど無視(というより無知を放置)して言うのだが、短歌という形式が目の前にあって、これをいったい何に使えるかなあと考えた場合思い浮かぶのは「エンターテインメント」だということ。
 短歌のエンターテインメント性の最大の根拠は「読みやすさ」である。「読みやすさ」を最大限生かすことで短歌のエンターテインメント性はいかんなく発揮される。1の読む労力だけで10の読後感を得られるような状態が理想的だ。ほんのわずかな時間と労力で非日常的な夢を見られるような、短歌には非常に効率的な「効き」が期待できると思う。また連作や歌集であっても、一首ごとの独立性があるため読者が勝手に拾い読みしたり、順番を入れ替えて読むことができる。読む側の都合に合わせた自由度の高い読み方が保証されているのも、短歌の「読みやすさ」すなわちエンターテインメント性の根拠となる。
 だが一方で、短歌のエンターテインメント性をおびやかす要素も「読みやすさ」の中にひそんでいる。正確に言えば「読みやすさ」の裏側に貼り付いたもうひとつの性質、「書きやすさ」がそれにあたる。短歌は読む側にとって読みやすいだけでなく、書く側にとっても書きやすい。だから「読みやすさ」のほうへ針がふれると短歌は(読者にとっての)エンターテインメントになるが、「書きやすさ」のほうへ針がふれた場合短歌は(作者にとっての)趣味になる。
 後者に使われた場合、短歌は創作の労力1によって作者が10の満足感を得られるかもしれない。文学的素養のないひとにとって、それなりに格好のついた短歌をつくることに苦労は伴うだろうが、それなりの散文を書き上げることに較べたらはるかに容易だ。出来のよしあしとは別に、短歌には音律が上げ底的に満足を与えてくれる側面もある。だから短歌は現実に今、書く側の趣味的娯楽としてひろく浸透しているわけだ。
「書きやすさ」を利用した趣味の短歌の定着とくらべて、「読みやすさ」に着目したエンターテインメントとしての短歌はずっと未開拓だと思う。この両者はまったく逆方向を向いた考え方および態度である。にもかかわらず、同一の根拠から出発しているために区別がつきにくいという問題がある。だからこそはっきりと言葉で区別しなければならず、ここはあえて芸術とか文学などという曖昧な領域で語ることはやめて、「趣味」と「エンターテインメント」の対立として考える必要があるということだ。

  • 昆虫に似ていく人がぼくたちの父親だからもうじき飛ぶよ