短歌日記

短歌には定型というフレームがあり、いわば部分に先立って全体が存在している。
にもかかわらず、そのフレームはたとえば写真のフレームのように、誰の目にもあきらかに存在しているものではない。短歌のフレームはその存在を信じる者にしか見えない。
だから短歌につかわれた言葉は、すべてフレームの中にレイアウトされた言葉であるにもかかわらず、なかなかそういう読まれ方をしにくい。短歌のフレームの存在を信じない目からは、全体からの引き算の操作は読み取れないので、散文のように足し算だけでつくられているように見える、のではなかろうか。足し算でつくられたものだと思うと、短歌はあまりに言葉が足りない。単なる舌足らずにしか見えなくなる。
定型が単にまっすぐな短い筒のようなものに思え、たまたまその筒の長さで切られた散文、にしか見えないような短歌はダメな短歌なのだ。すぐれた短歌は、読者があらかじめフレームを用意した好意的な読みをしなくても、おのずとフレームの物質的な存在を感じさせ、なおかつそこに配置された言葉のレイアウトまで読ませることができる、のかもしれない。

秋になれば秋が好きよと爪先でしずかにト音記号を描く  穂村弘