死角が必要なのだ

 我々はひとりひとりみんなちがうのだし、みんなちがうということが救いなのだ。
 わたしは、わたしと何もかも同じ人間などほかにひとりもいないということを思うと、ほっと胸をなでおろしてしまう。だって、もしそんなやつが自分以外にいるのだとすれば、わたしの絶望は二倍(三人いれば三倍、四人いれば四……)にひきのばされてしまうのだ。わたしの絶望は、わたしとちがう他人の絶望に道をふさがれることで、行き止まりをむかえる。われわれはおたがいに、それぞれの絶望に歯止めを掛け合うように障害物として存在している。根っからわたしとはちがう、想像のつかない人間がいるということが、この世界をわたしの絶望で染めあげてしまうことを防ぐ。世界の見通しが悪くなり、わたしが制限されることが、わたしを救う。
 だから「ひとりひとりみんなちがう」ということを前提としない作品をみると「げっ」と思うのである。「あるある、そういうの」という共感をあてにする作品があって、まんまと共感する受け手がいたりすることがすごくいやだ。この世界から死角をとりのぞいてゆくような、同じ気分をみんなでわかちあう空間をでっちあげるような、そういうタイプの作品。すごくきらい。
 他人のつくった作品を「わかる」ということは、どういうことなのか。それは作品をつくった他人の「わからなさ」を「わかる」ということなのである。わたしは孤独だけど、この人も孤独なのだな、ということをいちおう「わかる」。けれどわたしの孤独とこの人の孤独はべつのものであり、だから作品を通じて、わたしが孤独でなくなったりはしない。ただ、孤独なのは自分だけではなく、じつはどうやら人がみんな孤独であることを知ってちょっと救われる。
 そして作品の「わからなさ」は、わたしの絶望がけして世界じゅうを覆いつくしたりはしないことを確認させるだろう。なぜなら、「わからない」作品は作者の固有の絶望を示しているのであり、わたしの絶望がけっして覆うことのできない領域が、この世界にあることをくっきり示しているからである。
 わたしのいい気な絶望や孤独に冷水をあびせるような作品しか、わたしはいらない。「わかる」短歌も「わかる」小説もぜんぶどうでもいい、そんなものはなくていい。