短歌日記(短歌に物語は必要なのだ)

 物語を喚起する短歌が好きである。そういう短歌にしかほとんど興味がないといってもいい。連作で物語をなしている短歌ではなく、また作者の人生という物語を背景に味わう短歌でもない。一首がそれだけで、単独で、読み手を物語に引きずり込むような短歌。ちいさな箱をあけて覗いたら、自分の住んでる町が中にひろがっていたようなありえない空間を感じさせる短歌。そういうのが読みたいし、つくりたいし、そういうのしか読みたくもつくりたくもない。
 もちろん短歌は短すぎて、小説のように物語をまるごと内包することはできない。短歌のみじかさは、物語を内包するよりも、物語に内包されることにはるかに向いているといえる。
 いいかえると短歌は、それが何か大きな物語の一部分であることを暗示することで、物語に接続することができる。つまり描かれたものが一首の中で完結せず、前後につながる大きな物語の一場面であることを想像させる、というより想像させずにはおかないような場面づくりが、わたしの理想とする短歌には不可欠なのだった。
 映画の一場面のような、という言い方はありきたりだし、じっさい映像化して印象的なシーンと短歌にして印象的なそれはちがうと思う。でも物語を強烈に喚起する短歌は「映画の1シーンみたい」という印象を与えずにはおかない。魅力的な場面として描かれてしまった人物、場所、アイテムなどは、一首をこえたありえない時空へとひろがり出てしまう。そのような実体を欠いた時空に接続してしまった短歌だけが、わたしに必要な短歌であり、一首として自立できない(連作や詞書や背景情報の助けがいる)短歌は論外として、単に一首として31字内に自足しているだけの短歌にも興味は持てない。一首の短歌が一首分の意味や価値しかないなんて、当たり前すぎて物足りなすぎる。
 一首がパズルの1ピースであると同時に、どこにも存在しないパズルの全体をありありと目に浮かばせずにはおかない短歌だけが、本当に読みたい。必要なのはそういう短歌だけなのだ。

花好きの葬儀屋ふたり去りしあとわが家の庭の菊 首無し  寺山修司