短歌日記

短歌の短さは「なにもつたえない」ことに向いてるんではないのか。正しい意味をつたえる短歌つまり「正解」のある短歌は、正解だけで容量いっぱいになってしまうのではないか。
正しい意味=正解なんてどこにもない、というのではなく、それは短歌の中にはないということだ。正解は短歌の外にあり、短歌は正解から取り出されてきたその一部分であって、欠けたピースのようにはめこむと正解が完成する。ということを想像させるのだが、しかし短歌じたいの中にないものを短歌が読者に正しくとどけることはできない。だから正解は読者の前に明確なすがたをあらわすことはなく、読者には正解へのヒントと欲望だけが残る。
そうあるべきなのであって、短歌の中に正解をきっちり収めてしまうなんておもしろくもなんともない。短歌サイズに収まる正解なんて、どうせ人生をシミジミとなぐさめあうような「いい話」とか「格言」みたいなものだろう。そんなのを年賀状みたいに送りあうのが短歌なのかもしれないが、そうじゃないほうがいいし、そんな短歌はいやだ。

  • 出奔したダッチワイフから届く葉書みな白紙ダッチワイフは文盲