小説ノート

 ディックの小説には妙な浮遊感というか、地に足がつかない感じというか、読んでいる文章のうえを視線が滑っていくような、文章に直接視線がふれていないような、とらえどころのない感覚があると思う。それは物語として示される「現実の崩壊」が読者にもたらす感覚ではなく、逆にこの浮遊感によって物語の「現実の崩壊」が保証されるという感じ。
 ディックを読んだあとは、だからひとつの小説空間から帰って来たというよりも、何かとすれちがってきたという感じが残る。説明抜きでつぎつぎと既成事実として語られるSF的設定も、書き割りみたいに薄っぺらで頼りないし、物語の枠組みは途中でコロコロと変わっていくし、そのうえ「現実の崩壊」「現実のニセモノ性」が物語として主題化されている。この小説でいえば主人公のタヴァナーは、三千万人の視聴者を持つTVタレントなのにある日突然、誰も知らない男になってしまう。人々の記憶からも国家のデータバンクからも存在が消える。そういう話なのだが、そういう事態が起きることがまるで不思議でないというか、起きて当たり前のような風土がそもそもディックの小説にはあるし、この小説では冒頭いきなり現実が崩壊するのでいっそう、ディック的風土そのものとして純度が高い作品かもしれない。
 ディック的なものを書こうとしたとき難しいのは、細部の整合性に無頓着そうでいて、整合性とか辻褄とは別なところで作品をまとめあげてしまう、確信の強さみたいなものが真似できない点だろうか。たぶん作者には作者なりの辻褄があって、べつに矛盾などないと思って書いてるのかもしれない。
「ある事実がそれよりも上位の概念や事実によって規定されずに、その事実自体が規定している下位の事実によって論拠づけられるという、構造的なロジカル・タイプの混同」(ちくま文庫ウォー・ゲーム』久間十義氏解説)がディックの小説には頻出する。『流れよわが涙〜』にもそれは出てくる。どういうことかというと、たとえば幻覚というのは脳の中の問題であり、つまり現実の下位に従属するものであるはずなのに(作品内でもそういう扱いなのに)、なぜか平然と脳の領分を越えて、他人の現実にまで影響しはじめたりする。「平然と」というのが重要で、普通そういうことが起きるためには物語の枠をファンタジーみたいな何でもありなものにしなくてはいけないはずなのに、そういう言い訳もなく、SFを名乗ったまま平然とやってしまう。
 そこがディックの妙なところで、たぶんこのあたりの問題をスルーしてしまうのは確信犯というより、何かべつなことに目を奪われているために適当にスルーしてしまうのではないかと思える。そう感じてしまうのは、読者である私はつねにディック作品とすれ違うことしかできなくて、作者とはけして目があわない小説としてディックを読むからだ。何かぶつぶついいながら早足で歩いてきて、私に話しかけてるのかなーと思って待ってるとそのまますれ違ってどこかへいってしまう人。そんなイメージがディックにはあるのだった。