短歌日記/心霊写真としての短歌

 きのう書いたような「現実のもうひとつの解釈としての非現実」をつくりだす短歌というのは、いいかえれば心霊写真のような短歌ということになると思う。心霊写真というのは、たとえば岩の表面の影がたまたま人の顔のように見えたり、肩にのせた手がたまたま誰の手かわからないような角度でうつった写真、などである。それはあくまで現実の産物であり、細かく検証してゆけばすべて合理的な解釈を得られるはずなのだが、写真を見たときの印象として「やばいものがうつってしまった」と寒イボを立てずにいられないような写真というのは、たしかに存在する。その写真を構成している要素は、被写体やカメラやフィルムや現像工程、それに事故的な要素(二重露光とか)まで含めてすべて現実に属している。にもかかわらず、その組み合わせによってはとてもこの世のものとは思えない写真ができあがってしまうこともある。家の窓にうつった誰かの顔が、たまたま「心霊」に見えるだけだという解釈が容易に導き出せたとしても、その顔の示す表情があまりにも「心霊」的であったとすれば、現実的な解釈はその表情の非現実性によっておびやかされる。このように現実はあらかじめ非現実を含んでいるのである。風景には無数の死者の顔が隠し絵のようにあらかじめ含まれているし、生きた人間の変化する表情の中にも無数の死者の表情が、サブリミナル映像のようにあらかじめ紛れ込んでいる。それを偶然写真のフレームの中に切りとってきたものが心霊写真である。そして短歌でも同様のことが可能だということだ。だが(ホンモノの迫力を持った)心霊写真がごくまれにしか撮られることがないように、短歌が現実の中に非現実を切りとることもきわめてまれなことだとも思う。

 昨日引用した歌および下記の歌は歌集『人類のヴァイオリン』(砂子屋書房)より。現在読み中。

わが庭のパイン・トゥリーに巣をつくり顔、顔、顔と鴉は啼けり  大滝和子