小説は無駄遣い

 小説は一のことを語るために十の言葉を費やす。短歌は十のことを語るのに一の言葉で代える。小説は言葉を湯水のように無駄遣いすることでドライブ感を生み出すのだし、短歌は言葉を極端に切り詰めることで、逆にパノラマ島みたいなありえない広がりを錯覚させる。日本語のつかいかた、文学のやりくちにもいろいろあるというわけ。
 で、小説がドバドバと大量投入していく言葉は言葉である以上いちいち意味をもっていて、読者は当然それをいちいち読み取ろうという姿勢でいるわけだが、そうやっていちいち意味に立ち止まられていたのでは小説の文章は機能しない。ドライブ感を生み出すためには読者をどこかで意味の読解から解放してやらねばならず、そのためには無駄な言葉、つまり読者が意味を読み取ることを馬鹿馬鹿しく思うような言葉(細密描写とか、くりかえし表現とか)を投入し、しかし文章のリズムと全体の意味の流れによってつい読み続けてしまうような書き方ができれば、それは小説としての仕事を果たしている文章なのだと思う。