短歌日記

 私はずらっとたくさん並んだ短歌というものをどう読んでいいのか分からない。けれど短歌はいつも基本的にはずらっとたくさん並んでいる。短歌雑誌でも作品は十五首とか三十首とかいう一連を単位に掲載されているし、歌集をひらけば同じ作者の歌が何百首もえんえん並んでいるので、わたしはたいていそれが「ずらっと並んでいるもの」だということを無視して、あるいは軽く見て、でたらめに拾い読みするのだが、観念して冒頭から順番に読むときはべつに嫌いな作品じゃなくてもほとんど修行のような覚悟で耐える。もともと私は読書には苦痛をともなうほうだが短歌はみじかいからすぐ読めていいなあと思っていた。が、みじかい短歌がたくさん並んでそれなりの長さ(といっても普通に雑誌に載る散文よりはずっと短い)を持つと今度は散文以上に読むのがつらくなる。一行ごとに仕切り直しがあってぶつぶつ切れているものすごく読みづらい文章、のようなものとして読んでしまうのである。
 そう考えてみると今回応募した三十首を二部構成にしたのは、全体がひとつの流れをもつ連作として読まれることを断ち切りたいという無意識が働いたような気がする。だが結果的にそれは失敗だったと思うのは、ただひとかたまりの一連よりも二部に分けそれぞれに章題がつくというスタイルのほうが、かえって読み手に全体の構成を意識させてしまうことにやっと気づいたからだ。それは連作的な文脈や個々の歌の配置への読者の意識をかく乱させるには、まったく不十分なノイズ(になりきらない半端に意味ありげな情報)でしかなかった。読者を道に迷わせるようなニセの地図を描いたつもりが、単に誤植の多い校正不足の地図にしか見えないものになってしまったところがあり、(無意識の)意図は完全に空回りに終った。
 文学には「この先は無意識の仕事」という作者(の意識)すら立入禁止の領域があると思うが、そこで働く無意識はシロウトではなく目端の利くクロウトでなくてはいけないし、無意識が単独で勝手にいい仕事をするなんてことはまずありえないので、私が途中で匙を投げてそのあとは無意識がうまくやってくれるように託したようなときは、たいてい無意識もまたサボっているのである。文学における無意識の仕事は決して自動書記みたいなものじゃなくて、意識を徹底的に働かせたときだけ事後的に確認されるようなものでしかない。「ニセ宇宙」では無意識への丸投げはやらなかったが、十分に意識的な吟味を徹底してやれたという自信もなく、ひょっとしたら単に偶然を、つまり「なんだかよくわからなくなってきたけど、ええい、こうしてみるか!」という結果が運よくうまくいってくれていることを期待したのかもしれない。そんなことを期待してはいけない。

  • 砂糖匙くわえて見てるみずうみを埋め立てるほど大きな墓を