短歌日記

 はじめにある大きな枠組みの設定を決めてから、その設定(世界)内のエピソードをランダムに考えるみたいに個々の歌をつくりはじめるというやりかたは、近いうちぜひやってみたいと思うが、この方法だと設定に大きくもたれかかった歌を大量につくってしまう可能性は高い。たぶん設定が自分にとって新鮮で珍しいものであるほど、もたれかかる可能性は高まるだろう。新鮮で珍しい設定にもたれた歌は、つくってる本人にはなんとなく新鮮で珍しいもののように見えるから。
 そうならないためには、つまり設定に過度によりかからないために必要なのはむしろ自分にとって新鮮味のない、使い古された設定なのだと思う。寺山の「田園に死す」はまさにそういうものだったんじゃないか。そして短歌は、少なくとも現代のわれわれにとっての短歌は、使い古されて新鮮でもなんでもない設定と手を取り合うことで、反動に反動を重ね、マイナスにマイナスをかけ合わせ(るとプラスになるとかいう机上の空論みたいな理屈を信じ)、あたらしさとか前向きな価値とかに背を向けきってしまうことではじめて何か途方もなく無気味な存在になるんじゃないかという勘をはたらかせつつ、じゃあ自分にとってその「新鮮味のない使い古された設定」は何なのかということを考えてみる。

干鱈裂く女を母と呼びながら大正五十四年も暮れむ  寺山修司

 これなんですね。昭和四十年を「大正五十四年」として生ききってしまうグロテスク。たとえば昨今は昭和懐古がブームですが、そうじゃなく現在を昭和七十八年として生ききってしまうような世界。たとえばそういうものが必要だ。