いかりやと馬場

いかりや長介氏の死は私にとってジャイアント馬場氏の死とどこか似た印象のものだった。それが人間の世界の出来事ではないような死、けれど死んだことで実は彼らもまた人間であったことを認めざるを得ないような、そういう唖然とさせられる死が私にとっての彼らの死である。テレビ画面の中の人々の死がみなそうであるわけではない。共通するのはいかりや氏も馬場氏もあるグループ(ドリフの/全日本プロレスの)のリーダーであり、大柄な人物であったことだろうか。じっさいには両者の身長は三十センチ以上違うはずだが、周囲との対比(ドリフのメンバーとの/他のプロレスラーとの)によって二人の大柄さは同じように印象づけられていた。そしてその大柄さにはどこかデクノボー然とした印象が備わっていた点も共通する。不器用なデクノボー然とした、長身で長い顔のリーダー。ブラウン管にそのような人物が映し出され続けているとき、しかもそれが物心つく前から数十年におよぶ刷り込みであったとき、人は(私は)彼らのいる場所をテレビの世界のさらに向こう側、神話の世界だと信じ込むのかもしれない。それがなぜなのかさっぱりわからないが、私は自分でも知らぬ間に何かを強力に信仰していて、かれらの死は私の古い信心に致命的なひびを入れる出来事なのである。