目も鼻もない世界

 のっぺらぼうが恐ろしいのは顔がないからである。
 では顔がないものはすべて恐ろしいのか? たとえば扇風機には顔がないし、テーブルにもバスタオルにも長靴にも、一升瓶にも犬小屋にも顔はない。これらはすべてのっぺらぼうと同じように恐ろしいのだろうか?
 恐ろしい、というのが私の考えであるが、この恐ろしさに人はめったに気づくことがない。のっぺらぼうは本来顔のあるべき場所に顔がないことで、「顔がない」という事態を人にまざまざと意識させてしまう。ところが扇風機に顔がないこと、テーブルに顔がないことをわれわれは意識することがない。それらはもともと顔がないものだから、あらためて顔の不在を意識することができないのだ。
 だがのっぺらぼうが恐ろしいのであれば、扇風機もテーブルも恐ろしいはずである。実際それらは潜在的には恐ろしいのである。だがこの恐ろしさにわれわれの瞳はピントをあわせることが難しい。むしろ扇風機やテーブルやバスタオルに、長靴に一升瓶に犬小屋に顔があったほうがずっと恐ろしいとさえ思ってしまうだろう。
 たしかにそれは恐ろしいに違いない。だが扇風機に顔があった場合、恐ろしいのは顔があることそれ自体ではなく、今ここで目の前の扇風機に顔があるということによって、今までどの扇風機にもじつは顔がなかったという恐ろしい事実に気づいてしまうからこそ恐ろしいのである。
 世界の大部分には顔がない。したがって世界の大部分はのっぺらぼうであり、われわれはのっぺらぼうの大群に圧倒的に包囲されている。顔があるということは少数派に属することで、多数派のあいつらは、われわれとは絶対に目も合わせないし、口を利くこともない。それがこの世界というか宇宙に生きていることの実態である。