キレイ 神様と待ち合わせした女

 さいきん(一、二ヶ月くらい)テレビをなるべく見ないようにしている。今読んでる宮沢章夫の本(『考える水、その他の石』)にテレビの「面白さ」を「つい見てしまう程度の『面白さ』」と書いてあったが、テレビをなるべく見ないようにしていると、この積極的ではない「面白さ」の厄介さがなんだかよく実感できてくる。
 テレビは暇つぶしには最適な道具だと思う。テレビを見ているといつのまにか時間がたってしまうのである。「あれ? もう一年たってたの」なんてことがたびたび起きるので、齢をとるのが早くなるのだ。たぶん竜宮城というのはテレビだったのだろう。ということに私は気がついたので、白髪のおじいさんになってしまう前にテレビをなるべく見ないことにした。もうだいぶ時間はたってしまったのだが、幸い私はまだおじいさんではないので間に合ったのではないか。
 全然見ないことにするには何か決断する根拠が足りない感じなので、なるべく見ない。なるべくという弱々しい決意を維持するために、せっせと読書したりビデオを見たりする。というかテレビのせいで本を読まないことに最近気づいたから、テレビを(なるべく)見ないことにしたんだっけか。
 松尾スズキ演出『キレイ 神様と待ち合わせした女』のビデオを見た。今まで私が演劇を見た回数は、ビデオで見たのや中学校の文化祭などまで全部足したとしてもヒト桁を越えないと思われる。なので演劇一般における出来事と、ほかならぬこの芝居における固有の出来事の区別が私にはつかないのだが、それでも数少ない観劇体験のなかで、どうしようもないつまらない芝居を見たと思ったことくらいならある。つまらない芝居はなんだかポエムみたいな芝居だった。
 そして『キレイ』であるが、その一番つまらなかった芝居とは私のなかで対極に位置付けられたのである。つまり一番おもしろかったのだが、ヒト桁のなかの序列で一番だといってもそれじゃあ何も言ってないのと等しいかもしれない。だからもう少し書くと、人間がたくさん舞台を出入りして目に見えない、ここに存在しないはずのものを存在するかのように全身でふるまっている光景はまぶしくて、なんだか羨ましい(これは演劇一般の出来事?)。ひとつの舞台上に複数の時間を共存させる、その境界線の引き方の魔法みたいなさりげなさと、そのさりげさと同じくらいさりげなく境界線を消し去ってみせるクライマックスが、どうしてこんなに感動的なのかという演劇の謎(これはこの芝居固有の出来事?)。
 同じ舞台上でかなりの時間を共有し、しかも無口なわけではなく多くの台詞をしゃべるふたりの人間が、時には相手の耳もとに話しかけたりもするのに、けっして互いには言葉を交わさないという事態の不自然さ。その不自然をさまざまな方法を駆使して自然であるかに見せたあとで、あらためてその「自然」を剥ぎとったときにむきだしにされるものは何なのだろう。それが何なのかはわからないが、これこそ私がフィクションに求めてやまない何かであるのは確かなのだ。
 ビデオを見たあと、なんだか頭のなかに複雑な迷路みたいな地形が刻まれてしまった感じで、ずっとぼんやりしたままなのである。