引用と盗作

 私がもっとも影響を受けた作家のひとりは丸尾末広である。丸尾のマンガの何がよいかというと、盗作的なところがいい。倒錯的の誤変換ではない。丸尾の作品には、登場人物がほかの人物の目玉を舐めるという描写が何度も出てくる。これについて丸尾自身はだいたいつぎのようなことを語っていた。「何かでそういうシーンがあるのを見たんですよ。でも繰り返し使ってるうちに、いつか私の専売特許みたいになると思ってずっと描いてるんです」。
 私の知る範囲では、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」にたしか目玉舐めシーンがあった。たぶん丸尾はそれを参照しているのだが、彼自身は正しく参照元を記憶していない。あるいは記憶していたとしても、あえて参照元から目をそらしている。つまり丸尾の目玉舐めシーンは「引用」ではなく「盗作」の態度で描かれているのである。
「引用」と「盗作」がどうちがうかというと、「引用」にはかならず参照元をたどれる通路が意識的に設けられている。あえて細くわかりにくい通路にして鑑賞者の探偵気分を刺激することが多いが、とにかく正解として最後には参照元にたどりつくことができる。
 対する「盗作」のほうにはそのような通路が存在しない。もちろん鑑賞者はいくらでも参照元を推理することはできるが、作品は正解を用意していない。
 つきとめるのが困難な場所からわざわざ「盗」んでくることで盗作を気づかれないようにするケースは多いと思われるが、私はそういうケースは広義の「引用」のほうへ含めたいと思う。なぜならその場合作者は参照元を過剰に意識しているはずだから。
 そうではなく「盗作」は無意識の主導でおこなわれる。むしろ誰の目にもあからさまな参照元をもちながら、参照することの正当な理由が見当たらないものが私の考える「盗作」である。
「M」のピーター・ローレや「カリガリ博士」の眠り男といった映画史上のベタなキャラクターも丸尾は自作に登場させている。この場合作者は参照元を見失っていることはありえない。だが私にはこれらもまた「引用」には思えなかった。正当な根拠も与えられず(目玉舐めシーンと同じように)きわめて乱暴というかあっけらかんと、自分のつくりだしたキャラクターであるかのように扱われているからである。これだけ出所のはっきりしたものが、出所を無視されて新しい無根拠な世界で生き直させられてしまうとき、作品はわれわれがだれでも寝床に持っているあの荒唐無稽な「盗作」の世界にきわめて似たものになってくる。
 あれだけ神経の行き届いた描線をもつ漫画家が、無数の参照元をかかえた作品を描きながらけっして「引用」者の自意識のうっとうしさ(それは作品を操作する手つきを、作者が受け手に目配せしながら見せつけることで生じる)を微塵も感じさせないのは、丸尾が夢うつつの記憶喪失者の資質に恵まれた、徹底した「盗作」型の作家だからだと思う。
 といったようなことをうだうだ書いてきてもどうも肝心のいちばん言いたいことが言えてないような気がする。言いたいのはつまりこうだ。「引用ってなんかうざくない?」。