小説を見失う、ことについて

 小説を書いているとしだいに「この小説に書いていいこと」と「この小説に書いてはいけないこと」の判断がおぼつかなくなってくる。
 すでに小説に書きこんでしまった言葉が、書くべき小説としてはじめにイメージしていたものの輪郭からはみだし始めているのに気づいたときから、それは始まる。
「この小説」は事前に構想したものとは別物になろうとしている。別物として書かれつつある「この小説」がどういう小説なのか、全貌を書き手である私自身もまだ見渡していない。これがどういう小説なのかわからないのだから、当然「この小説」にふさわしい言葉やエピソードやアイデアがどんなものであるのか判断する基準は見当たらない。
 その結果、たった今も思いついて書き継ごうとしているこの言葉は、エピソードは、アイデアは、この小説に書きこんでしまって大丈夫なものなのか? という取捨の判断がきかなくなってしまう。それでもなんらかの判断をしないことには書き続けられないから、その場限りの不安定な基準をたてては、書きながら基準をまた見失い、またたてては書き、見失う。
 こうして小説は「なんでもあり」のアナーキーな状態におちいっていく。
 アナーキーな状態をテンション高く持続できたなら、それはそれでおもしろい結果に行きつく可能性もあるかもしれない。だが「なんでもあり」であるということは何を書いても虚しいということであり、この虚しさにとりつかれたあとで、小説を尻すぼみにさせないエネルギー源を私は持っていない。
 小説を書くエネルギーは小説じたいの中から見つけるしかないので、「なんでもあり」化した言葉たちの弛緩した空間に呑み込まれたらもうなすすべがない。お手上げである。