比率を変える

比率を変えろよ
変えろよ比率
比率を変えたら
世界が変わる
キャンプファイヤーのとき歌う歌のふしで。)


 比率がどうもまずいのではないか、と検討してみる。私がこうして日記に書いているような文章はだいたい六割がた正しくて、四割くらいまちがったことを書いている、と自分では思っているのだが、この比率がどうも問題なのではないか。
 ぬるい比率、とでもいうのだろうか。いちおう正しいことはいっておきたいんだけど十割の正しさはめざしていない、ということは保険として匂わせておきたいという比率じゃないのか、これは。だからといって正しさとまちがいが五分五分、にはならないよう一割分の正しさの上乗せだけはおこたらない。というようなせこい比率、人間のスケールの小ささが現れた比率のような気がしてくるのである。
 十割まちがっている、ぜんぶでたらめ、嘘、という文章を書いてみようという発想はそもそもないが、もし万が一その気になってみたり無理矢理強制的に書かされたりすれば、それはできないこともない気はするのだが、三割正しくて七割まちがった文章、というのを(七割のまちがいを自覚したうえで)書くのはかなり苦痛なのではないかと思う。三割の正しさは七割のまちがいに呑み込まれ、わたしは正しい人であることができなくなる。それが不安だ。十割まちがっていればそれはネガポジ反転させてぜんぶ正しい、のと大差ないような錯覚をおぼえなくもないが、三割とか四割の正しさは七割や六割のまちがいが微妙に影をおとす正しさである。そのほうがかっこいいというか、つねにまちがいよりも少ない正しさしか持ち合わせない文章はものほしげでなくていいなあ、とぼんやり思うのだが、ものほしげであることの染み付いた私は「なんだかんだいって結局のところ大方においては正しい」という線だけは押さえないと気分が落ち着かないのだ。
 十割正しい、ことをめざして結果的に九割とか八割の正しさを実現するような文章は、気質的にも能力的にも書くことはできない。だいたい正しさが七割をこえるあたりから文章を書くことの息苦しさは相当なレベルに突入すると思われる。六割の正しさというのはもっとも安易であり、正しいことをいちおうは言っているという自己満足を得ながら、真の正しさが要求するハードなものからは距離が置ける。そういう比率なのである。
 ひとまず五分五分をめざしてみるべきか。五割は正しく五割まちがっている文章。べつに五割にこだわる必要はないのだが、「正しさが五割をこえない」ことにはこだわってみるべきかもしれない。自衛隊を撤退させない限り私の文章は正しさが五割を割り続けるぞ。四十八時間以内に。