読んでいる本

●『現代短歌 そのこころみ』関川夏央
 以前ちょっと立ち読みしたとき「晩年の茂吉がもうろくして人の手を食べようとした」というような変な話が淡々と書いてあったので気になってた。淡々として著者があまり首をつっこまずエピソードや客観的事実そのものに語らせる、その配置におもに語らせるという書き方で同じ著者が原作のマンガ『「坊っちゃん」の時代』(のは客観的事実とはかぎらないみたいだけど)並みに読みやすい文章になってる。と思ったけど話が政治に接近するとやや饒舌になるみたいではある。中井英夫周辺の話はやっぱり何かとおもしろいなあ、これで予習したあと『黒衣の短歌史』読んでみようかという気になった。
 後半には『短歌パラダイス』『短歌はプロに訊け!』への言及もあるみたいだけど、そんないかにも現在らしい現在の短歌の話題まで扱ってこの本のそれまでのトーンが保てるんだろうか、という興味もわく。○○史的な本が現在にさしかかると失速しがちなのは、評価の固まった過去とちがって現在を相手にすると書き手の批評性がどうしてもむきだしになるからだ。はたしてこの本ではどうなっているのかちょっとどきどきしながらつづきを読んでみよう。
●『現代歌人文庫 平井弘歌集』
 歌集はなるべく冒頭から順番に読むようこころがけてる最近の私だが、これはほぼ偶然ひらいたページの偶然目にとまった歌を読むという読み方をつづけている。現代歌人文庫は1ページに二段組十首というレイアウトなので、いちどに目に入る歌の数が多すぎて順番という概念は(もともと私のなかではぐらぐらしているものがさらに)崩壊ぎみになっている。しかし偶然ひらくページっていうのはなんで同じページばかりが多いんだろう。本にひらきぐせがついてるからか。
気になった歌をいくつか。

ヤドカリが売られていたり騙すときも彼はうつ向かぬ ぼくらと異う
いま視野にある風船の消える時われは淋しくなるやも知れず
不揃いに時計が鳴れり村中のどこにもわれの姿は見えぬ
風が麦にすこし遅れて胸に吹くわらっても黙っている 君ばかり
男の子なるやさしさは紛れなくかしてごらんぼくが殺してあげる

 平易な言葉でかたられたちょっとした違和の光景が、特異なアングルやフレーミングやねじれた構成によって何度読んでも読み切れない、でも何度も読んでしまう底の知れなさ(それは定型という限界内にあるかぎり擬似的なものとも思えるし、しかし文学作品は必ずかたちに限界のあるものだから、文学にとってこれこそが本質的な底の知れなさであるのかもしれない)を生んでいるという点をおもに読む。
「風が麦に」の歌。構成はねじれてても意味は通っているのだが、その意味の通りかたがわれわれの脳にある意味の通る回路からはたびたび死角に入るので、何度読んでも意味がずたずたになる。ずたずたになりながらも意味が通っていることを意識は認めざるを得ない。そして気になってまた読み返してしまう。
「男の子なるやさしさ」の歌。これから読み取れる言外の意味の膨大さ。短歌と写真はよく似ているようでじつはぜんぜん違うものでもあると言えるけど(想像的なフレームと物質的なフレームの違いか)、この歌はまるでなかば偶然にもカメラが言葉の決定的瞬間をフレームに切りとったとしか思えない、言葉のカメラが脳に内臓されていたとしか思えないような一首。情報の欠落が過剰さをうむという逆説にいたっている希有な短歌だと思う。
(ほぼすべての情報欠落系の短歌は多かれ少なかれ物欲しげなところがあるので。私のも勿論含めて。)