交叉する文字列

 人間の目は横並びについているから視界は横方向に広い。したがって縦書きよりも横書きの文章の方が一度にたくさんの文字が目に入り、効率よく速く読むことができる。
 だから縦書きの文章を読むときには一種の抵抗感が生じ、縦書きの一行詩である短歌や俳句はこの抵抗感を糧に成り立っているところがあるのだと思う。
 短歌が横書きだったら、いわば横に広い覗き窓から景色を覗き込むようなもので、それは人間の目の並び方に合ったごく自然なレイアウトだといえる。
 だが横並びの目であえて縦長の覗き窓を覗き込むことが短歌を短歌として成立させる、つまり作り手にとっても読み手にとっても、いわばある種の緊張した姿勢をしいられる条件だったことが考えられるのではないか。
 左右に広い視界のなかを、上下に通過していく一行の文字列。それらが交差する一点で一文字ずつ不自由に読まれていくことと、視界と同じく左右にひろがった文字列が全体を抵抗なく一度に見渡されてしまうことでは、短歌が読まれる条件としてあまりに違っている。
 短歌や俳句が、縦書きが標準の日本語のなかで生まれてきたことと、この「視界と文字列の交差」による抵抗感の存在は無縁ではないと思う。あるいは八十年代に流行した広告コピー文化とか、山頭火から銀色夏生まで(?)のいわゆる「ポエム」文化も、この抵抗感を背景にして定着したものかもしれない。
 ネットは横書きが標準である。横書きは効率よく速く文章を読ませる。ただしパソコンのモニタで文章を読むことには別な抵抗感があり、横書きであっても大量の文章を読む気にはなれない。だからネットにも短歌を短歌として成立させる抵抗感はあるにはあるのだが、それは縦書きと比べてきわめて微弱なものだとも思う。
 ネットで読まれる(書かれる)べき短歌というのは、人間の視界にもネットの文脈にもそこにいて当然のような顔をして居座りながら、つまり短歌として緊張感をともなった読みの姿勢を読者にしいることなく、それでいて読み飛ばすことのできない違和感や抵抗感を読後に残すもの、と想像をするのだが、それが具体的にどんなものなのかはわからないし(なんか都合のいい想像という気はするし)、そもそもネットと文学を結びつけたがる発想じたい間違っている気もする。ネットは文学をやる場所ではないのではないか。少なくとも短歌や小説をネットでまで読む必要はないのではないか?