廃墟ブック

「最低の町だろう、住人が認めるんだから遠慮はいらん。最悪だ。まるで自分が死骸に産み落とされた卵みたいに思えてくる。ところで探偵さんは、蝿は好きか? この町は蝿が多い。喰いかけのフライドチキンでも放置すればすぐに繁殖する。金色のや灰色のが、はちきれそうな腹を光らせて太陽の下を飛び回ってる。きれいだ。目が回りそうだ。それで仕事の話だが」
 窓のない部屋で和服の男がまくしたてた。金属的な声。訛りの強い日本語。部屋の調度も気の触れたような日本趣味で不自然だった。だが男はきわめて居心地よさそうな構えで、座布団に片膝を立て探偵に笑いかけた。
「本当は今日の天候から始まって、儂の身の上話までゆっくり辿り着きたいが忙しいんでね、そうもいかない。君もこんな土地に長居は無用だろう、早速仕事の話を」
 おい、と隣室に呼びかけて禿頭を中に入れた。大男は壁際にしつらえたビデオ・プロジェクターに光を灯した。現れた映像はすでに当該箇所を呼び出してあるらしく、奇妙に頭の切れた印象から始まった。
 喧噪と光線が撮影者の足元をふらつかせるのか、それとも酩酊者の呂律に合わせたような音楽に体を奪われたのか、フレームはしきりにぐらついた。全裸の男が、ネジや結線をガジェット風に描かれたペニスを振り回している。馬鹿笑いがかぶさり、画面の外から子供が二人、胸ぐらをつかみあいながら転がり込む。だが二人とも顔は老人だった。口汚く罵り合う頭が画面から消え、カメラの下から伸び上がったオカマがかつらを取っておどけていると小さくパン、と銃声が響く。画面にいる何人かが振り返り、少し高い位置にいたピントのあっていない人影が人形のように倒れた。拍手がまばらに聞こえたがすぐに止む。そのあいだ全裸男のとなりで中年女がずり上がったブラジャーから乳房を取り出したりしまったりを繰り返す。中年女はアイラインの残骸を頬に垂らしている。染みの目立つ肌に赤味の強い乳首が突き出し、何か大きく口を開いて喋るが聞き取れない。アドバルーンみたいな肥満体の青年が女に抱きついてキスをした。青年の尻に的が描かれ矢が何本か刺さっている。吹き矢吹きの少女たちが青年を追う。新しい矢が刺さると青年は悲鳴を上げ、肉に隠れ半立ちのペニスから洗濯糊のように射精する。馬鹿笑いする中年女の口。
「儂の妻だ」
 一時停止させた画面を指さして男が言った。「別れて九年になる。もっとも、二年の別居期間中まったく顔を合わせていないから、十一年間彼女には会っていない。ぜひ会わせてほしい、それが依頼だ」
 男は目に涙を浮かべ、画面を直視するのも耐え難いかのように、探偵に体を向けたままだった。
「これは三年ほど前に撮影された映像だと思う。儂の知る限り、ここに映っている人間で今も生きている奴は一人もいない。じゃあ妻は? 生きていると思う。儂はぜひそうであってほしいと願う。それだけじゃない、妻だけが生き延びていると期待する根拠は」
 男の指がふたたび画面をさした。
「妻は優秀な二重スパイだった。儂は組織から見捨てられた身だが、妻は違う。あの乱痴気騒ぎは幹部のほかは上位三パーセントの成績を残した人間のみ参加を許される。そして妻は、組織へ送り届ける収穫物にひそかに毒を盛り、あの食えない怪物に栄養と毒素を同時に運ぶ有能な働き蟻を演じ続けた名女優だ。……しかし奴等の勘も馬鹿にならなかった。しだいに妻の素性に疑いを向け出したらしい。儂は蔭ながら彼女を支援した。彼女が政府筋の情報屋を偽装暗殺したとき、儂は死体の調達から監察への根回しまで請け負った。その間一度も妻に会うこともなく。だが裏をかかれたのさ、情報屋は本当に殺されていたよ。妻の立場は危うくなった。儂も政府と組織、どちらとも距離を置く必要が出てきた。結果、情報は途絶え連絡手段も失った。組織の粛清は苛烈だ。優秀なスパイは、時とともに自然と二重スパイ化するものだ。組織は最も信頼してきたはずの十数名をひそかに手放した。その年に最も酷い死に方をした自殺者や事故死者、殺人事件被害者の中に彼らの名前はある。幸いなことに、妻の年恰好に見合う身元不明遺体は発見されていないのだ」
 ため息に変わる語尾を残して、男は黙り込んだ。
「……儂は少し喋りすぎたようだね、探偵さん。言うまでもないことだが、必要な情報だけを持ち歩いてくれ。そしてすべてが終わったらすみやかに捨てるように。それが君のためでもある。儂は明日はもうここにはいない。しばらく連絡が途絶えると思うが……こちらから接触するまで、何しろ妻のことをよろしく頼むよ」