前後不覚の読者

 読書には「わけが分かりたいから」する読書もあれば「わけが分からなくなりたいから」する読書もある。怪談本を読むのは後者、少なくとも私の場合はそうだ、わけが分からなくなりたいから怪談本を読む。もちろん怪談本に限らずそういう本(わけが分からなくなるために読む本)は存在するが、怪談本のいいところは一話が短くてしかもキャッチーで読みやすいために、うまくいけば私をもっとも効率よくわけが分からなくさせてくれる、という点だ。
 世界の法則を見失わせる、異常な歪んだ話が満載の怪談本がいつだって読みたい。迷路に幽霊屋敷が増築されたような奇妙な建築物として、私の行く先々でぽっかり玄関をあけて待ち構えていてほしいと願う。そうした建物から建物のあいだを訪ね歩くことが人生だと錯覚できるくらい大量に、異常な歪んだ怪談ばかり収めた本が三日に一冊くらいのペースで刊行され続ける社会にしてくれる政党があれば私は必ず投票に行くと断言できる。
 先日読み終えた『「超」怖い話Ζ』(平山夢明編著)はこのところ半年おきに刊行される実話怪談集のシリーズ最新刊で、私が怪談本に求める上記のような効果に関してきわめて安定した、私がもっとも信頼している怪談集だ。つまり異常な歪んだ話の豊富なシリーズだということだ。
 たとえばこの巻には精神病患者による造語を思わせる「棺潜り」というタイトルをもつ話がある。ある田舎に伝わる内容のはっきりしない迷信が、友人の自殺をきっかけとして突然身に降りかかってくる。「棺潜り」という語に圧縮されていた世界が解凍したかのように立体化して、一人の人間を内部に閉じ込める話である。と書いてもいったい何のことかさっぱり分からないと思うが、描かれる怪異、というか恐怖体験はきわめて具体的なものだ。具体的過ぎてそのまま書き写すしかないくらい。だから書けない。
 その具体的な悪夢がふたたび「棺潜り」という言葉に折り畳まれることで一話は閉じるのだが、当然というべきか「棺潜り」という語の意味は読後も不明なままだった。たぶんその意味を定義するには無数の「棺潜り」という題の話を語りなおし続けるしかなく、つまりひたすら具体例を挙げていくかただ一言「棺潜り」の語だけで片付けてしまうか、どちらかしかありえないのでは。


 それが何であるかを説明することが不可能なもの。
 そこからひたすら具体的な物語が生産されてゆくもの。
 生産された物語と等価に吊り合いつづける空虚で、かつ質量をもったもの。
 これってほとんどマクガフィンじゃないだろうか。
 マクガフィンの意味ははてなのキーワードを参照のこと(マクガフィンをクリック)。
「ベッド」という話に描かれた、怪異をよぶ木片もほとんどマクガフィン化していたように思う。つまり私の大好きな異常な歪んだ怪談の多くが、じつはマクガフィンをはらんで成立していたのかもしれないということに今気がつくことができた。
 マクガフィンがもともと持っている倒錯性が怪談には存分に生かすことができるのではないか。物語に虚無をまぎれこませる手段としてマクガフィンに注目。