実話はどこにあるのか

河井克夫著『日本の実話』というマンガがものすごく面白そうだ。
「そうだ」と推量になってるのはまだ読んでないからで、本屋で数話だけ立ち読みしたところ「この本は是非読むべきだ」と思った。下品な言い方をすると「この本は使える」と思った。思ったけどまだ読んでいないし手に入れてもいない。
いずれきっと読むだろう。箪笥の死角になってた面に、今まで気づかなかった引き出しの存在を発見。みたいなドキドキ感があったから。このドキドキ感を大事にしたいと思った。そろそろと引き出しを開けて隙間から覗き込み、「えっ」とか「ううー」とか「ははあ」とか言いながら心臓に手を当てて「ああ。ドキドキしてる」という確認をしたい。そうして自分でもドキドキを動力にして何か書きたい。熱に浮かされて何か書いてみたい。そういう方面の効果にも期待がとても高まっている本なのだが、とにかく今は読んでないのである。
だから今から書くのは『日本の実話』の感想ではなくて『日本の実話』を立ち読みした刺激で脳が考え始めた「実話のリアリティ」みたいなことについての話だ。というか書きながら考えるのは。


ここで「実話」という名で呼びたいのは「活字になった実話」のことである。
実話(活字になった実話)にはエロ方面における「実話誌」や心霊方面における「実話怪談」など、ジャンル名に実話という語が含まれているものがある。これらのジャンル(名)によって実話という言葉の語感のかなりの部分が決定されていると思う。つまり文字通り「本当の話」という以上のニュアンスが実話という言葉には含まれている。
私もこの語感にわりと忠実に実話というものをイメージしている。
つまり実話とは実話誌や実話怪談本に載っているような文章のことである。
あるいはそれとよく似た文章のことである。あるいはそれとよく似た文章に、よく似た文章のことである。
(つまりエロ実話や実話怪談と全然似ていないものでさえありうるだろう。)


実話怪談を例にとってみよう(エロ方面の実話物には疎くて例にとれないので)。そこではたとえば幽霊の目撃体験が語られているが、誰かが幽霊を目撃した。という体験が事実であるからそれを実話と呼ぶわけではない。
誰かが幽霊を目撃した、という体験を「語った」ことが事実だから実話と呼ぶのである。つまり体験そのものが到底信じがたくとも、体験談を語る人間の実在性が濃厚であればそれは実話の感触を持つ。語られる内容じたいの信憑性ではなく、語っている人間の実在の信憑性が問題なのだ。


もちろんここでいう信憑性とは、あくまで文章や文章の掲載されている媒体から醸しだされるもののことで、そこを離れて書き手や媒体の裏事情を詮索する必要はないし、そんなことをしても意味がない。
実話を読むのは事実が知りたいからではなく、誰かが事実だと信じていたり、事実だと信じさせたがっている(信じがたい)話を読みたいからである。または信じがたい話を、信じたり信じさせたがっている人のありさまを読みたいから読むのである。
事実らしさの度合いが高ければ話の内容に比重を置いた読み方になるし、いかにも嘘にしか思えない話、であれば語っている人間により関心を払った読み方(この人は嘘つきなのか。それとも幻覚を見たのか。あるいは妄想に取り付かれているのか。等々)になるだろう。


幽霊の実在を信じない人にも怪談がリアリティをもつのはなぜか。
怪談を語る人の実在、にリアリティがあるからで、だから都市伝説のような誰の体験かはっきりしない話でも、無責任な伝聞リレーに加わっている語り手の実在が信じられれば実話のリアリティは発生する。
極端な話、文章の書き手の実在感さえ濃厚なら、怪異の体験者の存在も、体験を又聞きで語る人の存在も、何もかもハリボテのように嘘臭くたってかまわないのだと思う。
自分の頭の中の空想だか妄想を、実話と称して書かずにいられない書き手の「業」のようなものが、読者に伝わればそれはもう実話、なのだ。こいつは嘘を書いてるな、聞き書きと称して自分で作った話を書いてるな、と読者が思ったときの「こいつ=書き手」の生身が文章から嗅ぎ取れればそれは実話である。
と、私は実話のことをそう考えている。


生身の人間の「業」が匂ってくるかどうかが、実話とフィクションの分かれ目なのだと思う。
つまり生身の人間の「業」がパッケージされている文章が実話である。
「業」の持主はべつに誰でもかまわない。彼あるいは彼女が、「業」とともにたしかにこの世に実在していることを読者に確信させてくれる文章でありさえすればいい。


ところで怪談というのは「嘘つき」と「正直者」がマトリョーシカのように階層化することが宿命づけられたジャンルと言っていいかもしれない。
怪談が怪談でありうるのは、そこに我々の現実を裏切る(と感じさせる)出来事が含まれているからで、それがなければ怪談ではない。
現実を裏切る出来事を書き込むためには、誰かが嘘つき役を引き受けなければならない。
どこかに嘘つきがいるらしい、という読者の疑念を怪談そのものが必要としている。結果的に嘘つきを演じてしまっている正直者も含めて。現実を裏切る出来事が語られ、しかもどこにも嘘つきがいない、と感じさせる文章はたとえ幽霊が出たり恐ろしい話であっても怪談ではなくなる(理性的に信じがたい出来事が、まったき確信に固められて提示されると宗教の匂いを放ち始める)。かといって嘘つきぱかり集まっても怪談ではなくなり、嘘つきが正直者を、正直者が嘘つきを吐き出し続けるマトリョーシカが怪談である(嘘つきの話を正直者が書きとめたもの、またはその逆は果たして「嘘」なのか「本当」なのか)。


だから怪談は実話との相性が抜群にいいのだろう。嘘つきこそ「業」の権化だし、だまされやすい正直者も、だまされたふりのうまい嘘つきも、嘘をついたつもりで実はつけてない正直者も、それぞれに「業」と親しい実話の登場人物や話者たちである。
小説のように作家という唯一の嘘つきの存在が確定している文章ではなく、誰が正直者で嘘つきなのか、つねに不確定に揺れ続けるのが実話であり、実話でしか読めない・書けないことがたしかにあって私は今それがものすごく気になっている。
とりあえずあらゆる小説は表紙に「これは実話です」と印刷すべきだと思う。
面白くなるのはそれからだ。