天使の誘惑

 部屋の真ん中で死んでいる昆虫をぼくは生活のへそと名づけた。動かさないように気をつけて翌朝をむかえると、壁の借金メーターが500をさしている。昨日は300をちょっと越えるくらいだったのに。
 首をくくるか就職するかでぼくは揺れ動いた。犬と結婚した知人の女性の話を思い出して何とか心を和ませようとしたが、女性が結婚したのも借金が理由だったことを思い出すとかえって気分が暗くなる。彼女はべつに犬など好きではなかったのだ。
 資産家の犬はぼくの何万倍も贅沢な暮らしを彼女に提供しただろう。だが所詮犬なので家は犬小屋だし食事はドッグ・フードだ。朝晩の散歩は妻である女性の義務である。投票日には選挙権のない夫を家に置いて彼女だけが投票に行く。夫は屈辱を感じるだろうか? 犬だから何も感じないのか? ぼくが今すべきことはあの犬に自分の選挙権を売りにいくことだ。
 便器の蓋を開けるとそこにエスカレーターが稼動している。ぼくは地下鉄の駅にたどり着くまで電車賃がないことを忘れていた。改札の前まで行って手ぶらで引き返す頃には、ぼくは全身糞尿まみれだった。首を吊るには掃除機コードで充分だろうか。わが家には鴨居というものがないが、低い天井からはいつでも天使が両手をさしのべてぼくが助けを求めるのを待ち構えている気がする。