普通の貧乏な日々。mixi日記より転載。



某月某日
今しがたチキンラーメンを食べた。
晩ご飯が貧乏ナポリタン(スパゲティのケチャップ炒め。具はキャベツだけ)だったせいかお腹が減ってしまい、なけなしの備蓄食糧に手をつけてしまったわけです。
残り一個になった。


チキンラーメンはなかなかいい食べ物です。その理由を述べます。


●簡単。
(お湯をかけるだけ。手間がかからないぶん、食べる前に期待や空腹感がふくらみすぎないのがよい。「お湯かけただけなんだから、こんなもんか」とあきらめがつく。)


●安い。
(五個入り207円。一個40円ちょいでカップ麺よりお得。安いからしょうがない、とあきらめがつく。)


●おいしすぎない。
(おいしすぎると、もっと食べたい気持ちになる。まずいと満足感がなくて、やはりもっと食べたくなる。ホドホドなところがよい。)


●パッケージ写真が現実的。
(具が生卵と葱だけ。具沢山な現実離れした「調理例」じゃないので、むくわれない食欲が無駄に刺激されないのがよい。)


というわけで、貧乏人のための食品としてかなりの完成度だと思う。
金のないやつはあきらめて食え。




某月某日
夕飯はきちんと食べたのに、夜中になると何となく空腹をおぼえる。気になりだすと、空腹感が拡大レンズにかかったように大きくなる。そんな夜が二晩続いた。原因は空腹そのものじゃないだろうから、今後もたびたびあることかもしれない。


だとしても大丈夫。私には卵があるということがさっきわかった。


卵を二つ茹でて固ゆで卵にして、マヨネーズをつけてかじる。露出した黄身のところに醤油をたらし、さらにマヨネーズをつけてかじる。それをくりかえすと二つの卵は完全に私の中に消えた。20円(二個分の価格)分以上の満足感が残された。
「夢見るように眠りたい」という映画で、佐野史郎がゆで卵ばかり食べてる探偵役をやっていた。山のようなゆで卵を常備していつも齧っている。ゆで卵の大人食いだ。四六時中ゆで卵が食べられるなんて温泉つきの家とか、インベーダーゲームのある家に住んでるみたいだった。私はゆで卵を常備したくはないが、思いついたらすぐゆで卵が茹でられる心構えでいようと思う。それはさして難しいことじゃない。




某月某日
求人サイトで町田周辺の求人情報を見てたら
SHOP99がオープニングスタッフを募集していた。
そのことの意味を私はしばらくたってからようやく気づいた。


興奮しながら「勤務地」とされているビルを地図で調べると
駅から家に帰るだいたい線上といえる場所にある。


すばらしい。
さっき成瀬のSHOP99
50円引きのからあげを買ってきたばかりなのだが
もうわざわざとなり駅まで歩くこともないということだ。
そして町田駅周辺だけで三軒もある
(そのうち一軒はギガ町田である)
ダイソーの支配から私は解放されるだろう。
ドンキの狭い店内で百円のシュウマイの
品切れに肩を落とすこともなくなるだろう。
ほかは全部閉まっているという理由で
家とは反対側にある西友で深夜、バナナを買い求める必要も
なくなるというものだ。
なにしろ偉大なことにSHOP99は24時間営業なのだ。





ゴミが戸別収集(集積所じゃなくて家の前に各自置いとく)
になってからひそかに怖れていたことが現実になる。


今日は私の出したゴミが夜になっても残っていた。
なぜかうちのアパートの住人はあまりゴミを出さず、
本日出されたのは私のゴミだけだったのだが、
私はいちばん安い袋(10円)にぎゅうぎゅうに押し込めて出すので
小さくて目立たないのだ。
だから見落とされてしまったんだと思う。
みんなでかい袋に、余裕を持ってつめる人ばかり。
いちばんちいさい袋を使う人なんていない。
これは間接的に「貧乏だからゴミを収集してもらえなかった」
ということを意味している。
私にもっとお金があれば
大きなゴミ袋に、ふんだんに出るゴミをぜいたくに詰めて
目を見張るようなゴミを出すことができた。
だが現実には私の出すささやかなゴミは
ゴミの専門家にゴミとしてさえ認められないしろものだったのだ。
垣根の前に置かれたそれは
名もない一輪の花のように黙殺されて
いま我が家に出戻ってきている。


この感情が悲しみであるなら
99円の店が近所にできるという喜びもまた
私の悲しみの一部である。
目を近づけてみればさまざまな表情の変化をみせる風景も
遠ざけてその全体を眺めてしまえば
みなどことなく悲しい。




某月某日
ちかごろ近所を回っているセールスマン、なのかどうか不明だが、私に用があるわけじゃなく私以外の人を順番に訪ねてくる過程で私のことも訪ねてくる人、なのであるが、玄関のチャイムを鳴らさず声も発することがなく、ドアをいつも小さく二回だけノックするその人のことがすこし気味が悪い。
折り曲げた中指の第二関節、をドアに打ちあてると思しきコツコツという響きも気に障るが、数日おきに訪れるその頻度も又不気味に感じる。担当区域(でまだセールス活動してない世帯)をしらみつぶしに回っているだけなのだろう。一度でもドアを開けて応対してしまえば、たぶん二度とあのノックを耳にすることもないのだ。その人は私に用があるわけではなく、用のない人間だと分かりさえすればそれきり訪問は終了する。ノックの音はしなくなる。私は、折り畳まれたような腰の黒衣の老婆に見出された子供ではなく、ふしくれだった指に握られた「?」マークじみた杖の柄で、あのドアは二度叩かれているわけではない。私は、留守のふりを続けることによって辛うじて命をながらえている、心細いみなし児なんかではないのだ。外は真昼。都下の住宅街。晴天。うろつきまわっているのは、成果の上がらないセールスマンたちに決まっている。でなければ胡散臭い宗教、あるいは新聞の勧誘員だろう。私の知っている現実とはそういうものだ。世間知らずな私の知っている現実は。