切断と接続

 ネットでは「切断」する身振りに追い風が吹くようになっていてその切断面の問答無用なアザヤカさが前提となり、つぎに切断されたものどうしの「接続」が祝福される。断面は断面のまま「接続」によって簡単に癒着を起こさないからこそ「接続」が多発し、つまり再切断や再接続を可能性として含みこんだ切断であり接続である。
 ネットになじまないのは、ある状態の持続を経験することで自分がしだいに変容していく、といった経験でそれはネットでは起こりにくい性質の出来事だし、起きたとしても変容前の自分と変容後の自分が簡単に切断されてしまうので、状態の持続による変容ということにはならない気がする。
『小説修業』を読みながら、こういう文章を読んでいるうちにだんだん頭の中の気圧とか温度が変化して(冬と夏がまるで別世界であるように)自分が別人に変ってしまったような感覚というのは、ネットあるいはネットの感覚をベースにした生活には持ち込めないのかもしれない、ということを思った。小説を読むという経験は「状態の持続による自分の変容」を前提に成り立っていると思うけど、初期の中原昌也は切断と接続、の多発という意味でまるでネットみたいだった。自分が変容するというより、自分が切断されて他人になったり自分と他人が接続して自分あるいは他人になる世界はネットみたいで、でもそれが小説になっているのでネット的な磁場からずらされているという意味で小説だった。(その後の中原はより小説的=保坂・小島的なものに近づいていると思う。)