心のすさんだ人の書いた文章を読むと、内容に共感できるかできないかというのとはべつに確実に心がすさむので、それを読んで暗い気持ちになった理由が内容に共感あるいは反感をおぼえたことにあるのだと考えるのはよくある間違いであり、本当はただ、すさんだ心を目撃してしまった自分の心もそのすさみを無意識に真似てしまっているのだということに気づいて反省すると、うかつに(無自覚に)すさんだ心のまま誰かと喧嘩を始めたりすでに始まってるのに加わったりしてすさみの面積をおし広げてしまうことは避けられるかもしれない。
 心の狭い人は「私は心が狭いです」とはなかなか認めないので心が狭いくせに広いようなふりをしたがり、心の狭さを丸出しにした揶揄や、ユーモアを装っているがそのじつ傷つきやすい胸のうちをさらけだし不安げに周囲を見回しながらの笑いの記号の振り撒き、などをせわしなく重ねたのちに、取り繕うように「こういう意見もあるということです」などと自らを相対化したつもりになって心の狭さをただの心の狭さとして防衛的に温存してしまう(世界中を自らの心の狭さの沼の底に引きずりこもうとはしない。あくまで心の広い人たちの仲間みたいな顔をしたがり心の狭さに殉じない)。
 私は心がだいぶ狭いので心の狭い人を見ると近親憎悪的に何か言ってみたくなるのであるが、そこで何か言うことは相手の狭い心よりひとまわり狭い心になって(ひとまわり広い心であっても同じことだ)狭い心のマトリョーシカ人形の一部になりにいくことを意味するので、そんなものになるとあとで後悔するだろうから心の狭い人にはなるべく近づかないようにしなければならない。ブラウザのブックマークに「心の狭い人の日記」フォルダを作成してそこに隔離し、それなりの心構えとともに見にいくようにしてダメージを最小限に抑える。アンテナに入れるなどして心の狭い人に彼に注目する私の存在を知られる危険をおかしてはならない。