霧の坂道はくちぶえの中

 バス停として道端に置かれているのは等身大の若い男の姿をしたマネキン人形である。停留所の名前はマネキンにつけられた名前(モデルになった人物から何の迷いもなく譲り受けられたもの)がそのまま使われているのでバス停らしくない。口にすると誰かの噂話を始めるような心持ちにさせられるし、私たちにとって会話にまぎれこませにくい困った名前ばかりだった。
 車内アナウンスが次の停留所を「サトウマサオ」だと告げると、それが私の降りる予定の場所(佐藤正男)だと気づいて降車ボタンに指をふれたまま、誰かがブザーを鳴らすかもしれないという期待をまだ捨ててはいない。間のあいた車内であきらめてまるでサトウマサオに一票を投じるような納得のいかない、タイミングの遅れた分だけ気まずいブザー音を鳴らすとすでにバス停が間近だったらしく、バスは急に減速すると歩道のガードレールの切れ目に寄せて身を震わせて止まった。
 歩道に降りてきた客は私のほかに二人つづいた。私はまんまとこの三人の代表をつとめさせられたことを悟ったのだが、民家の庭木の影をからだの半分に受け止めて信号待ちのサラリーマンのようにたたずむ佐藤正男の人形は、はにかんだような笑みから白い歯を覗かせていて私の気に入るものだった。白い歯は排ガスのせいで黒ずんでいたけれど十分に白い歯に私には見える。離れて暮らしている年の離れた弟に似ているところがなくもなかった。不慣れなよそものに恥ずかしい役目をおしつける、狡猾な人たちのことも弟なら笑って問題にしないだろう。ほかの二人の客はそれぞれ知り合いではないらしく、坂道を別方向へ無言のまま歩き出していくのを私はバスの窓から遠ざかるバス停よりも無関心に眺めた。