最初から読むというルール

 本を読みながら百円菓子の麦チョコをつまんでいたら少し気分が悪くなり(その前にアイスモナカも食べていた)、まもなく腹が下り始めそうな胃・腸ともに微妙な気配を体に感じながら今この文章を打っている。
 読んでいた本はユリイカ2005年11月号 特集=文化系女子カタログで、図書館へ行くたび返却されていないか確かめていたのだが今日(すでに昨日だが)ようやく借りてこれたこの本を、私にしては珍しく最初から順番に読んでいる。私はたいていの本は途中から読んで面白そうだったり読みやすそうなページだけをランダムにつまみ読みしがちなのだが、そうした読み方で最近はページをせわしなくめくるだけで読んだ気になり、結局何も読まずに図書を返しにいくことが増えたので読み方を「最初から順番に飛ばさずに読む」という新ルールに沿ったものに変えた。それは同じユリイカのオタクVSサブカルがそのような読み方で最後まで読めたという記憶に新しい成功例にならってのことであるが、実際には文化系女子カタログの特集ページが始まる前の記事は冒頭の多和田葉子の小説以外はすっとばして今読んでいるという事実は当然のように無視される。ルールは破ったこと対するこだわりが生じなければ(こだわりなく見過ごすことができるなら)破ったことにならないのである。多和田氏の「免許証」はこれは「非道の大陸」という連作なのだろうか、すごくよくてこんな小説ばかり入った一冊の本が今うちに欲しいと思う(今の自分が欲している種類の文章)。
 ほかに借りてきた本は渡部直己かくも繊細なる横暴―日本「六八年」小説論』、穂村弘本当はちがうんだ日記』、井上雅彦監修『オバケヤシキ―異形コレクション〈33〉 (光文社文庫)』の三冊だが私の予想では、渡部氏の本は読み終われるかどうか微妙で「どうせ読み終わらないのだからそのうちまた借りてきたとき読もう」などと考えて今回はほとんど手をつけないかもしれない。穂村氏の本はおそらく読み終えるのではないか。異形コレクション大槻ケンヂ氏の作品を初めいくつかを読んで返却日を迎えるだろう。来週は24時間道端で寒風に吹かれるアルバイトが二本入っており、とくに難しい内容やなじみのない文章の本は徹夜明けの疲労から回復しても脳が凍っており読む気がしないはず。ここはひとまずユリイカを読了することを最優先することで「また本が読めなかった」という毎度おなじみな挫折した気持ちになることを回避したい。