言わないほうがいい

うつのみやさんmixiで紹介されていた、作家・保坂和志の芸大での講義。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/12/post_2ad2.html


 保坂氏の肉声のしゃべりはここで初めて聞いたのだけど、予想をはるかに上回って想像通りだったというか、あまりに「保坂和志」っぽすぎたことがかえって意外だったというか、なんだかおかしくて聞いていて笑ってしまった。おかしいことも含めていろいろとすばらしいと思った。


 とくに印象に残ったのはたとえば次のような部分。

小説にも音感は必要。でも必要ないって言っておかないと、表面的なテンポ(メトロノーム的な)ばかりが問題にされてしまう。そんなことが問題にされるくらいなら、散文にはテンポがないって言った方がいいんだけど、本当はある。でもそれは評論家に言っても通じないので、言わないほうがいい


 必要なのか必要ないのか。散文にテンポはあるのかないのか。あると言った方がいいのか言わない方がいいのか。
 すぱっと言い切ろうと思えば言い切れそうなところを言い切らずに、同じことを何度も逆から辿りなおすように、目的の家の前の道を行ったり来たりするみたいに言い直すところが保坂氏の小説と同じであり、とても小説的で、それは保坂氏の小説に保坂氏の考え方(しゃべり方)のくせが出ているからなのか、この場では小説の話をしているから「小説のように話す」ことにしているからなのか、きっとどちらでもあるのだろう。それはもともとひとつのことなのかもしれない。
 話しぶりじたいの小説っぽさとはべつに(あるいは切り離しがたく)、ここで語られている小説観にもすごく納得がいくので保坂氏の『小説の自由』を読まなければ(『書きあぐねている人のための小説入門』も読み返してみたい)と思った。


 話が頻繁に横道へ逸れていったり、突然鳴り出した携帯のアラーム(猫の餌の時間に合わせたものだと説明される)でしばし中断したり、途中入室してきた学生(?)に「立ってないでどこかあいてるとこに座れば?」と今まで講義していたのと同じ口調で言ったあとすぐに声に段差がなく元の話に戻ったり、といった大学の授業においてはさして珍しくはないだろう展開や出来事もそういう耳で聞いてしまうからなのか、全部保坂和志的な展開や出来事であるかのように受け取って面白くなってしまう。


 すぐに話がひとつの大きな流れから外に脱線するのだけれど、正確に元の場所に戻ってこれない(どこで脱線したのかということをほとんど覚えておこうという気がない)ところがよくて、いわば括弧づけで挿話をはさみながら括弧を閉じ忘れたり、括弧の中に括弧が追加されていったい何個分の括弧を閉じればいいのかを途中で見失ったり。そういうことが平然とおこなわれているのがいい。全体をみわたすことができない話が今ここでほんの少し前の自らの話と目の前の出来事(教室からの反応など)だけを受けて進んだり戻ったりを繰り返しながら結果的にじわじわと面積がひろがっていく。あくまで結果的にであってほとんどどこまで広げようという目処も事前に立てずに話されている話(じっさい保坂氏は一人で話すつもりではなく茂木健一郎氏との対話のつもりだったのが直前に一人で話すことを知ったと語っている)。この面積には何かの実質があってこの実質に何かの希望があるということは確実にわかる。この希望に性急に名前を与えようとしてはいけないのだ。