絶望とユーモア

 吉永嘉明自殺されちゃった僕』を読む。最愛の人間に自殺を選ばれしまうという悲痛な経験が、もしユーモアで韜晦したスタイル以外で書かれているとしたら、とてもきつくて読み通せないか、読み通すことで読者の元気が奪われる陰鬱な本になってしまっていることが予想されるだろう。予想される、というとまるで本を読む前に考えたことのように聞こえるが、実際は本を読み終えてから遡るようにそう思ったのだった。この本を読む前に私が「悲痛な経験をユーモアで包装した文章であってほしいなあ」とか思っていたわけではない。
 最愛の人に自殺されるということの想像を絶する苦痛は、想像力が豊かではなく且つ忘れっぽい(かつてそういう苦痛を描いた文章その他に接していても、とうに忘れてしまっているだろう)私には、読む前にうまく予想の立つものではなかった。ほぼ読み終える頃になって、こういう手記は「ユーモアに韜晦することで読者を生々しい現場に直面させず、でも韜晦していることは伝えることで書き手の孤独と悲しみが間接的に伝わるような文章」じゃないとキツいかもしれない、と思ったのだ。そしてこの本の文章はそういう文章ではなかったわけだが、では読んでいて元気がなくなるような本かというとそうではない。無条件に元気が出るような本ではないが、とても立ち直りきっているとは言えない著者に対し、この本に描かれた友人たちがそうしたように読者の私も励ましの言葉をかけたくなるような、著者の人柄が滲み出した文章には、ある種のユーモアに似たものが感じられた。この無防備な「人徳」には、ユーモアで完全武装した絶望などより読者を元気づけるところがあるかもしれない。