多幸感はたそがれの色

 そんなに悪い感じの事故じゃなかった。わたしは真っ赤な夕焼けが真っ黒になるところを、帽子のふちの下からこわごわ見てた。でもそんなにひどい「真っ黒」じゃないと思った。これなら頭の悪い男にビール瓶でぶたれた時よりずっとまし。あのときはすごく血が出たし、気がついたら包帯に瞼まで埋まってたんだから。今日のはちがうでしょ? そう思いながら私のすべては真っ黒にのみこまれつつあった。けっこう黒い。ちょっと待って! これはなんかちょっと「暗黒」だけど。狭い、ねえ車からおろしてくれない? だれかいないの? だれもいない。少し寒くもある。そして私は、あっというまに暗くなった。


 気がついたのではなく、はじまったのだ。わたしはさっきまで着てた枕カバーみたいな服を着てないことは、べつに驚かなかったけど、つまさきが、ずいぶん遠くにあると思った。「つまさきが、ずいぶん遠くにある」という考えが8の字をえがいて、私はそれをぐるぐる回った。
 つまさきがぴくぴくと痙攣して、それからひざを立てて立ち上がろうとしてる。私は手のひらをベッド(に寝てるのだと思った)に突いて立ち上がる動作に加わろうとした。
「ちがうよ。あんたじゃない」
 という声が頭上から降ったので、見ると白いひげをたくわえた口元がそう言ったのだ。目を離してたすきにつまさきは立ち上がってしまい、私は寝そべったまま。白いひげの隣りに黒髪の女が無表情に並んだ。それで気づいたのは、サンタクロースみたいな男が満面の笑みだったこと。でも不自然な笑顔だ。サンタクロースがそうであるように。
「クリスマスには間に合わなかったがね。どうだいそいつの着心地は?」
 どういう意味? と私は眉間にしわをよせた。身を起こそうと手のひらにあらためて、ベッドの感触をおぼえる。「どういう意味?」と声が出て、その声の中で私はぐるぐる同じことを考える。どういう意味? 勢いをつけて持ち上がった上半身は、私のものじゃなく、目の前にはだれかのふるえの止まらない背中があった。どういう意味?
 待って。どこへ行くの。


 玉突き事故、の玉でいうとちょうど真ん中くらい。いちばんみごとに潰れた車の中身もまた、いちばんよく潰れている。もちろんよ。夕焼けが、墨の中に沈んでいく巨人の背中のようだ。それはとても奇抜な連想だった。なにか余裕を感じるっていうか。あるいは、ダメになっちゃってるっていうか。こわれたスピーカーからもれてくる音みたいに。
 指紋って、よく見ると渦になってるのと、そうじゃないのとあるでしょう。さっき気づいたの。よく見るの初めてだから。ほかに何も見るものないから、指紋見てる。ラジオも鳴ってるわけよ。この人の声きらい。ほかの局に変えて頂戴。でもそれは無理な話だった。ガラスに蜘蛛の巣が、ひろがる、ひろがる。そんなに悪い事故じゃない。だってまだ夜じゃないし、番組は、いつか終るものだから。もっと最悪なことなら、いくらでも挙げることはできる。だからそんなに悲しい目をしないで、運転手さん。まるでお留守な窓みたいよ。


 二人目の女がならぶと、入院着のような同じ服のせいで、そう見えるのではない。やっぱり同じ顔なのだ。そしてそれは、私の顔にしては少し表情が足りない。少しじゃない、あまりにも。
 三人目が今、自転車にはじめて乗る子供のように、ぎこちなくベッドを降りて床に立つ。すると私は、紙くずをまるめたみたいに笑顔になった。それを見て真似して、笑顔を試している二人の女。それは笑顔と呼ぶにはまだ未完成すぎるしろものだった。でもしかたないの。時計がうるさくて眠れない部屋のような、そんな騒ぎが、三人目の私の服の下から漏れてくる。それもまたしかたないの。いやだったら耳をふさげばいい。そうですよねえ? あまりにも簡単な相談ですよねえ。
 私は両手で耳をふさぐ方法について、満面の笑みの男に訊ねた。