「揺籃」のつづき

「揺籃」は終盤になってちょっと二枚目になってしまうところが惜しいと思った。それまでのたとえばトレーナーがとりもちで顔に貼り付いてしまうとか、電車の網棚の上を這って進むとかいう馬鹿馬鹿しい夢のような描写がなくなってなんだか文学的になってしまう。このクライマックスの文学的な失調感(文学が失調してるのではなく、失調して文学的になってるという意味)は保坂氏が影響をここで語っているフィリップ・K・ディックの『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕 (ハヤカワ文庫SF)』の終盤のつまらなさに通じるものがあるかもしれない。現実の崩壊そのものだった小説が終盤になって(息切れして?)、それまで小説が体現していた「現実の崩壊」をただ意味として比喩的な文章で語りだしてしまうというか、そこまでにありありと実現されていた世界が最後にはただ形骸として表面的になぞられている状態が、構成的にはクライマックスの機能を担わされて最後に置かれているところが似ている。
 終りさえなければ小説はもっと自由なのに、なあ。