保坂和志「揺籃」(『明け方の猫』所収)を読んで

 過去に経験した出来事を今ここで思い出して語る、ということのなかにすでに夢を見ることに通じる道のようなものができている。それは単に過去の経験の正確だったり不正確だったりする再現なのではない。小説は原則として「過去に経験した出来事を思い出して語る」という形式であり、しかもそれは書き手が現実に「過去に経験した出来事」そのものには縛られないのである(つまり形式が内容をからっぽにしたまま存在できる)。縛られないけれど、書物や映像や他人からの聞きかじりも含めた、広い意味での「過去に経験した出来事」と無関係には誰も小説を書くことはできない。
 それはやはり「過去に経験した出来事」の集積でありながら、あまりに元の経験の順番や辻褄を無視して出鱈目につなぎ直されてあらわれる夢というものに似ているだろう。われわれがいつかどこかで経験したことを、思い出して今ここで語るという行為の中に含まれる「現実と言葉のあいだで迷子になる可能性」を押し広げる場所が小説や夢であるということだ。
「揺籃」を読みながらそんなことを考えた。この文章は読んでいる途中に読みかけのページをこたつと体の間やホットカーペットの上に伏せて置いたまま書いたもので、まだ私は70ページもない短い「揺籃」という小説を最後まで読み終えていない。私は小説のページを10ページもめくらないうちにすぐに休憩を入れてネットを見て回ったりほかの本を開いてしまったりするほど根気がないので、まだなかなか続きを読むことに戻ることができない。だが保坂和志のデビュー前の作品である「揺籃」は保坂氏の作品の中では異色だけど大好きな「桜の開花は目前に迫っていた」とちょっと似たところがあってこういうタイプの小説ももっと読みたいと、まだ読み終わる前なのにもう思った。