お仕着せ

 ひとつ前のエントリー(UHFで心霊ドラマ)はあらためて読み返してみると、内容的にちょっとどうかと思うところがある。内容的にというより表現的にというべきか。表現と内容は別々のものというわけではない。
 何か表現物に接して「思わせぶりでないところがいい」と書くのは私の癖というか、もう何十回これまでに書いたかわからない常套句で、つまりその表現物に接して自分が感じたことをきちんと吟味して言葉に移し変える作業をはしょった時に頻発する言葉だといえる。まったく思ってもいないことを自動的に書いてる、とまでは言わないが、そのとき思ったことに比較的近い既製品を自分の中から手っ取り早く見つけ出すと、寸足らずだったりぶかぶかだったりするサイズの合わなさには目をつぶってお仕着せにして、文章の中に放り出している感は否めない。
「思わせぶりでないところがいい」と言いたがる私は思わせぶりなものが当然のように嫌いなのだろうか。嫌いである、ともいえるがそうじゃないこともあるような気がする。つまり「思わせぶり」という言葉では精度が低すぎるのである。私が嫌いなものは、「思わせぶり」なものの中の一部のもので、それを正確に指し示す言葉を知らないので「思わせぶりなものはよくない」という不正確なことを書いてしまう。とこうして書きながら考えているうちにたぶん私は「思わせぶり」でなおかつ「物欲しげ」なものが嫌いなのではないかと思えてきた。一時期私はデヴィッド・リンチは思わせぶりだから駄目だ、と思い込んでいたことがあり、その後やっぱりデヴィッド・リンチは駄目ではない、と考えを改めた。私はデヴィッド・リンチは思わせぶりだという考えはそのまま維持しているが、それでも嫌いじゃないのはデヴィッド・リンチは物欲しげじゃないからだと思う。貧乏臭い思わせぶりは嫌いだということなのではないだろうか。