文章の足場

 文章というのは、そこに書かれていることだけを読むというわけにいかなくて、そこには書かれてないことも同時に読むことでようやく読むことができる。
 そこに書かれてないこと、というのは読者の頭の中にあるもののことで、読者は目の前にある文章の余白を自分の頭の中にある言葉で埋めながら読んでいる。そうしなければ、ただ書かれている文章だけを読もうとすると読み進めるための足場というか、通路のようなものが確保できないのだ。書かれている文章そのものを読者が踏んづけていたのでは、読みづらくてうまく頭に入ってこないので、余白を手持ちの言葉(というか知識というか)で埋め立ててそこを歩いていくことでようやく、書かれていることがしっかり視界に納められるようになる。
 同じ文章を別な人が読んだ場合だけでなく、同じ人が日を改めて読んだだけでまるで違う印象を持ってしまうのは、そういう理由によるのだろう。つまり書かれている文章は同じでも、その文章のまわりに足場として持ってくる言葉が違えば、読んだ時の印象が大きく変るのは当然のことだ。どんな言葉を足場に持ってくるかは、そのとき考えていることや最近読んだ本などに大きく左右されるはずで、自分自身で意識的に操作することは難しいと思える。
 これは文章を書く場合にも同じように言えることである。文章というのは、そこに書きつつあることだけを書くというわけにいかなくて、そこには書かれていないことも同時に書くことでようやく書くことができる。文章を書いている人は、今書きつつある言葉以外のもので足場を組んで書いているのであり、その足場は書き終わった文章が人手に渡る(他人に読まれる)ときに解体されて外される。というか書き手はたいてい無意識のうちに足場も同時に手渡してるつもりになっているものだが、実際には、足場など跡形もなく消えた文章そのものだけが他人の手に渡るのである(足場はもともと書き手の頭の中にあるものだから)。
 だから文章は、書き手がそのつもりで手渡したようには他人に読んでもらうことができない。文章を書くときに使った足場(それ自体は文章として書き込まれてはいない)を完全に消去して、書き手は自分の書いた文章そのものを読むことは不可能であり、だから自分の書いた文章のもっとも不自由な読者の位置にとどまっている。それに対して読者の方は、そのときの気分や体調といった不安定な条件や、それぞれの人生で蓄積された固有の条件などにしたがって、自由にばらばらに読むための足場を組み上げるのだから、とてもじゃないが書き手とは気が合うわけがないのだ。