書ける気持ち、書きたい気持ち

 今年の前半に小説の(脳内)締め切りが最低二つはある(ことになっている)のだが、いつものことながら書くことにいっこうに本気になれないというかエンジンがかからないというか、本気になったりエンジンをかけることをわざと避けてばかりいるかのようでさえある。本気になってエンジンをかけてもこんなものしか書けないのか、という現実に直面することを恐れているのか、小説のエンジンがかかっている状態、という脳内が普段と違う非常事態に移行することを恐怖してその手前で躊躇しているのか。たぶんどちらでもあるだけでなく、ほかにもいくらでも理由を見つけることができるほど、ある程度の長さの小説(たとえ短編でも)を書き始めることには少なからぬ恐怖が伴っている。
 その恐怖をなだめるためには小説を読んだり、小説について(小説のように)書かれた文章を読むのがいいのではないか。と考えたからではないけれど、図書館で借りた去年の「新潮」11月号を読んでいると、保坂和志の連載「小説をめぐって」がやはりとっても面白いことに気づく。面白いだけでなく、読んでいると自分にも小説が書けるような気がしてくるし、それだけでなく小説を書きたいという気持ちもかきたてられるところがある。小説が書けるような気持ちにさせる文章や、小説を書きたい気持ちにさせる文章はそれぞれ世の中には大量に、かどうかは分からないけど存在すると思うが、書けるという気持ちと書きたいという気持ちを同時にけしかける文章はそう多くないだろうと思う。「なんだ、こんな小説なんて自分でも書けそうじゃん」という気持ちになったとき、小説はべつに書かなくてもいいような魅力のないものに思えているし、「ああ、自分もこんな小説が書きたいなあ」と思うとき小説は、魅力的であるがゆえに自分にはとても手の届きそうのないものに思えている。それが普通のことだと思うが、保坂氏が小説について書いた文章、によって示される小説の場合は魅力的なのに自分にもきっと何か書ける、という気持ちにさせられるのはなぜだろう。
 魅力的な場所について語るのに、そこがいかにここから遠くはなれた、現実離れした夢のような土地であるかを語るということをしていないから、ではないかと思った。その魅力的な土地の魅力を語りつつ、そこがわれわれのいる場所からたとえ距離はあっても確実に地続きの、ここからの道順さえ示せる実在の土地であることが示されているからではないか。道順がすべて明かされているというわけではないが、道順を言える実在の場所であることを前提にその土地の魅力が語られる。いや、そうではなくて、道順をたどってそこへ行き着くような距離がその土地とわれわれの間にある、ということではないのだと思う。その土地はわれわれが今いるよく知ったこの土地のどこかの、知られざる魅力ある場所のことである。
 本当は魅力という言い方もちょっとふさわしくなくて、魅力という言葉のもつ高をくくったみたいな印象とは程遠く、いわば芸術としての小説が保坂氏によって語られている。小説への趣味的な接し方がここで語られているわけではないのだ。ただ芸術という言葉は言葉でまた誤解を招きやすくて、芸術という言葉からわれわれがしてしまう誤解は、むしろ小説への趣味的な接し方(高のくくり方)のほうに近いものだということがある。
 われわれは芸術と聞くと芸術趣味を思い浮かべるし、小説と聞くと小説趣味を、文学と聞くと文学趣味を思い浮かべるようになっている。文学そのものについて語るのは困難だけど、文学趣味について語るのは容易で誰でも語ってそれなりの満足を得られるからだろうか。そして保坂氏の小説論には小説趣味、芸術趣味、文学趣味というものがまったく欠けているのだ。ここでいう趣味というのはたぶんオリエンタリズム(という言葉をここで使って合ってるかどうか、いちおうググってみたがたぶん合ってると思う)のようなものだ。小説なんて自分とは本当は無関係だと思いながら、無関係だからこそ存分にそこで夢見たり癒されたりできるわけで、そのような立場をとるかぎり自分のいる場所と小説は地続きになりようがないし、またそのような立場を維持するためには小説と自分が地続きでは困るわけだ。
 保坂和志には文学趣味が欠けているから、小説をユートピアのようなものとして語ることがない。ユートピアとは私が生きたまま生身で入り込むことのできない世界だ。保坂氏の語る小説は現実の一部であり、そこに足を踏み入れるために私は死ぬ必要がない。けれどそれは私が見慣れて見飽きている現実ではなく、私が見慣れて見飽きていると思っている現実がじつは現実の氷山の一角でしかない、ということをわからせるような現実だ。ただ残念なことに私が現実をそのようなものとして感じ、そのような現実としての小説、を自分にも書けるそして書きたいものとしてくっきり意識できるのは、ほぼ保坂氏の文章を読んでいる間だけであり、私は自力ではその喜ばしい状態を維持できない。