恐怖と自由

 恐怖は我々の人生に居場所を広げる効果をもっている。
 何を好き好んで「世界の発狂した部分」の幻影に付け狙われてみたがるのか。我々をこの世から突き落とそうとする殺人狂や、あの世へ引きずり込もうとする怨霊のドラマに夢中になるのかといえば、この世界の本当の最果てのラインを確認するためにである。
 日常サイズに萎縮させられた世界では、生活が、人間関係が、この世界そのものであるかのようにふるまう。すべて人間界の論理で事が運ばれているとき、生きる苦しみの原因は私自身にあるか、あるいは私以外の誰かにあることにしかならない。それは潜在的には「すべて私が悪い」というのと同じことなのだ。私であれ彼であれ人間である点に変わりないのだから。
 だが本当の敵はじつは私自身ではない。恐怖がそのことに気づかせてくれるだろう。
 殺人狂や怨霊がこわれた機械のように追いかけ、待ち伏せるのは、どう考えても私が原因ではない。人間界の論理では説明不能な動きをそれらは見せるのだ。それらの理不尽に恐怖するとき、私は私の人生を考え直さねばならなくなる。人間だけを登場人物とした、人間界の苦悩ではこの恐怖に対応できない。したがって人生は殺人狂や怨霊のたたずむラインと接するところまで、その面積を広げてゆく必要が生じる。このとき私の目の前の人間たちはなぎ倒され、にわかに開けた視界の中で私は野生動物のように逃げまどうことの自由を自覚する。