瞼の下の本

 もともと何ごとにおいても集中力のたりない私だから、本を読みながらでも、何かほかのことをすぐに考え始めてしまう。とくに、眠たいときはその「ほかのこと」が本に「書かれていること」と明確に区別して考える/読むことができなくなってしまい、頭の中で考えていることをページの上に読んでしまう、という間違いがよく起きる。
 本を読んでいるうちに眠くなる、ということがまた非常に多いのだが、眠くなると、朦朧としながら文字を追い続け、はっと気がついて、今読んでいたところを読み返そうとすると、どこにもない。
 いや、途中まではたしかに読んでいた文章がそこにはあるのだが、その先に書かれていたはずのことが、どこにも見あたらないので、ああ、あれは違うのだなと思いあたる。あれは、私が頭の中でつくってしまった文章なのだ。今まで読んでいた文章を、半分眠りに落ちている頭が、それでもなお読み続けようとして、でも、もう目が文字を追うことはできなくなっている。すでにまぶたは閉じていたのかもしれない。そこで自分で文字を映像として頭の中につくりあげ、そっちを読んでいたのだ。
 これは、頁のうえに文字が並んで目の前にある、ということの揺るぎなさへの意識が、うつらうつらと眠りかけている私をも、強く縛りつけているから起きることだろう(このことじたいが揺らぐと、本当に眠りに落ちるのだろう)。
 目の前で頁の存在が揺るぎないから、私は頭の中でおきたことも、すべて頁のうえの文字がその舞台だと錯覚することが可能だ。たぶんこのような夢の読書、の舞台になりうるような場所を、寝そべって顔の前に持ち上げている文庫本の見開きから、たとえば今こうして文字を打っている、パソコンの画面に移しとるというか、ずらし込むことができるかといえば、できないだろう。だが本当は瞼が閉じていたのかもしれない、そのときも、ありありと見え続けていた文字のならびと、自分でつづるディスプレイ上の文字が似て見え始めるようなことは、起きるかもしれない。
 夢の入口くらいまでには持ち込める、あの、視界に立ちふさがる白い表面は、それとも、画面などという仮想的なものでは駄目で、原稿用紙だとか、指でめくれる、文字がうっかり消えてしまうことなどのない、やっぱり紙でできている必要があるのだろうか。本に似ていなければならないのか、どうか。