文体のことなんて本当は考えたくないですよ。

こういう日記的なものを書くとき私はたいてい「だ・である」体で書くんですが、たまに「です・ます」体で書いてみると文章との距離感というか、文章と自分の関係がまったくべつなものになってしまうので驚きますね。
「だ・である」だと私はほとんど自分の頭を使わないで書くようなんですよ。文章の中で考えながら書いてて、それが他人事のようだというか、離人的な感覚があります。自分の頭はもちろん少しは使うけど、なんか意見をちょっとだけ出してみて、あとは文章に考えさせるといいますか、文章が出してきた答え(あるいは計算式みたいなもの)を眺めて、まあいいんじゃないかと思ったらリリースする。そのときの判断はものすごく甘いですけど、まあそんな感じで文章と関わるわけですね。
それはなぜそんなふうになるかというと、たぶん私の脳味噌というか、思考回路は、本来「だ・である」的なものには耐えられないのですね、きっと。「だ・である」を使うと文章が偉そうになりますから、そのエラさに見合っただけの難しいことを言わなきゃ、とか思うんだけど、悲しいことに私の脳味噌には難しい言葉とか、難しい考え方が、あんまし入ってない。だもんで、難しげな回路を通して文章に書こうとすると、途中で手には負えない気分になり、あとは任せたからね! と、文章に責任転嫁して自分は外から眺めるような態度が生まれるわけです。
だから「だ・である」の文章には、いくら自分で読んで納得するようなよさげなことが書いてあっても、あとで読み返したり、その文章が存在していることに思いを馳せたとき、それを自分が書いたという体感が乏しかったりするわけです。
そもそもふだん喋る時は「だ・である」じゃないしね。文章と話し言葉はちがうけど、でもどっちかというと「です・ます」で喋るし、「です・ます」で喋ってる時の方が脳の回転はよくなるみたいです。敬語だからちょっと緊張感が生まれるのかと思うけど。
なんでこんなことを考えたかというと、最近私は、頭の悪さが以前にもましてひどいことになってることを自覚してまして、これ以上馬鹿になりたくないなあ、ということを思ったのです。だからその文章に書いたことが面白いかどうかとか、共感(自分にだけど)できるかどうかなんてことより、それがたしかに自分の書いた文章だなあ、という体感が残るような文章を書いたほうがいいのではないか、と思った。物を考えたという痕跡がちゃんと残るようにしたら、馬鹿に歯止めがかかる気がするんですね。