「よ・ね」体。とか文体のことをもう少し。

というわけでですね。
昨日の日記のコメント欄に書いたのですが、私が昨日述べた「です・ます」体というのは実は「よ・ね」体のことではないかと。「〜ですよ」「〜ますね」という語尾を適宜盛り込んでゆくことで、生じるニュアンスみたいなものが、私にはどうも必要なのじゃないか。
それがないともしかして「です・ます」だけで押し切ってみたところでやはり、文章が文章で完結しようとしてしまうかもしれない、自分の頭で書いた気がしないかも、という気がなんだかしてきましたです。


ただしこれは、本当は「よ・ね」に限ったことでもまたないわけで、ほら今使ったこの「わけ」っていうのがありますけど、これもそうだし、あとは「です」の前に付ける「なの」「なん」ていうのがありますね。「〜なのです」「〜なんです」という。
これもかなりこのたびの趣旨からしまして、使いたい感じが濃厚でありますし、こういうおもに語尾付近におけるニュアンス付加のバラエティというか、まあ悪く(?)いうと文章で主張してる内容をぼやかすかのような、内容にクッションを入れるような語尾の底上げみたいなことが、私はやりたいのかもしれない。やりたいというか、やったら何かよろこばしい効果があるのを期待してるというか。


コメント欄でぱんさんの書いた「文節に『ね』を挿むことによる混沌化」というのは、いかにも揺るぎない感じに見えていたものが、「ね」の効果でぐらつくということだと思いますが、そうやって自分の書いたものも書きながらぐらつかせていかないと、いかにも揺るぎないものに見えてきてしまうのですね、自分でも。何かすごく正しいというか、うかつに前言をひるがえしたりできないような立派な意見とか、真実が書かれてるみたいに一見みえてしまう。ちょっと大げさではありますがまあ、そんな傾向があります。


私が文体の話をしながらずっと頭にあるのはやはり小説のことで、私は小説を書いているといつも、途中からそれが自分の書いているものだと思えなくなる、どういうつもりで書いていたかわからなくなる、見失う、ということが必ず起きるわけです。
それでもすでに書かれた小説の部分が自律的に先に進もうとしている力を見極めて、それをうまくコントロールして完成に到らせる能力というものが、ある人にはあって、それできちんと完成させるのかもしれないけど、私にはまるでない。この点については疑う余地がないと自分でも思っておりまして。日記とちがって小説には、そもそも自分と関係の薄いものが材料として大量に含まれてるせいもあるし、何より小説は一般的に長すぎる。とてもじゃないけど、いったん自分と切れてしまった文章の完成につきあうような根気や実力を私は私に期待できない、ということを思うのです。


だから切れないようにしないといけないわけですね。生身の私に対し、立派で抑圧的に文章がなってしまうのを防がないと、生身の私の適当さとか、頭の悪さとか、行き当たりばったりの思いつきとか、ころころ変わる意見とか、そういうものが文章に反映できなくて、結果、たとえば書いてる途中で世界の見え方が変わってしまった私は、そこでその文章を棄てなきゃならなくなる。


私は自分が小説を完成させられない(出来がどうとか、面白さとか意義がとかいう以前に文字通り「完成させられない」)理由について、そんな仮説をあたらしく立ててみたいと思ったわけです。「世界の見え方」なんて大げさですが、小説を書くということは「世界を見る」こと抜きにはできなかったりもして、で、私はそれがすごい短いスパンでぐらぐらと動くんです。
このぐらぐら自体を直そうと思うと(この齢までこれで生きてしまってからでは)ちょっと絶望的になるのですが、ぐらぐらしながらでも書ける文章、小説、のことを考える余地はまだいろいろとあるのでは、ということなんです。期待がある。


だから自分の書く文章が、もちろん短く完結させる場合はべつにどうでもいいんだけど、ある程度の長さにするつもりだったら、あんまり立派な抑圧的なものに見えてはいけない、ということを気をつけたい。途中でちがうことを言いはじめたりしにくくなってしまうから。そのためにはおもに語尾をくねくねといじって、落ち着かない感じにしとくのが効果的らしい、それを今のところ仮に「よ・ね」体の文体というふうに呼んでおくことにします。コメント欄にも書いたけど、結論出したりうまく結末で見得切ったりしないで適当に終らせていいような気がする、ところもなんだかいいなと思いますね。


私が想像する、自分がもっとも饒舌に語り続けられるシチュエーションというのは「自分に対し好意的な態度の聴衆を前に、上からではなく同じ目の高さからマイクを使って喋る」というものなんですが(そういう経験は実際ほとんどないですけど)、「よ・ね」体というのはこのシチュエーションを文章の中に模造するものなのではないだろうか。なんだかそんな気が私はしてきました。とにかくおよその始まりと終りの見当だけつけて、あとはだらだら喋り続けるみたいに書く、というのがしやすい文体だと思うんですね。おそらくは。